2003年9月15日プラザ・イン・くろかみ(栃木県宇都宮市)で、下村洋子先生の還暦祝い記念コンサートが開かれた。250名の方に招待状を出し、196名の方が参加された。北は北海道から南は神奈川県まで、各地から友人・知人そして下村先生の歌をこよなく愛する方々がお集まりになられた。、下村先生の歌を核とした交流の輪の広がりを覚えた。私と野尻園長もお招きに与かった。

 下村先生が敬愛しておられる恩師の故ピッツィンガー教授は、60歳以降2度と公の場で歌わなかったそうです。下村先生も数年前から、60歳で引退すると語っておられた。声楽家としての大きな区切りであった。

 以下のインタビューは、2003年10月13日(月)下村先生のご自宅で3時間かけて行われたものです。

         参加者   下村洋子先生
                 下村徹 氏 (下村先生のご主人)
                 野尻ヒデ   (さつき幼児園長)
                 井上高光  (さつき幼児園理事長)

井上 私は子どもの教育現場にいる者として、下村先生の子ども時代の音楽との出会いについて関     心があります。

下村   高校に入学した時に、どういう人生を歩むかを考えた時、自分には音楽しかないと思いま
      た。
       小学校6年までピアノを習っていました。中学校の3年間はピアノを習うのを中断していまし      たが、高校に 入学したら、もう一度音楽をやろうそして音楽大学に入ろうと、宇都宮女子校      の入学前から決めていました。

井上 今でこそ音楽大学を目指す方は多くいらしゃいますが、その当時はとても珍しかったのでは、     宇都宮女子校に入学されたのは何年でか。

下村 1959年に入学しました。
    その頃宇都宮の町中探してもピアノのある家庭は数軒ぐらいでしょうね!。

井上 先生のお宅にはピアノはあったのですか。

下村 ハモンドオルガンだけがありました。
    「高校入学したら、お祝いにピアノを買ってあげる」という約束でした。
    実家の道の向かいに、大きな材木商を営んでおられた猪俣家のお嬢さん(さつき幼児園の絵     の指導者須永昌子先生のお姉さん)が、歌をうたいピアノを弾いておりました。猪俣家では裏     手に沢山の貸家を持っていた。その中に私の友達が住んでおり、年中遊びに通っていました。    そのつどピアノの音が聞こえ歌声が聞こえてきた。それで「私もピアノをやりたい」と始めました

井上 先生の実家はどの辺になりますか。

下村 清住町通りにある陶器商を営んでいる「たまき」さんの路地の奥に家がありました。

井上 ピアノは何歳から習われたのですか。

下村 ピアノは小学校3年生から6年生まで習いました。
    小学校で“学芸会”“音楽会”があった時に、ピアノを独奏したり、オペレッタで歌ったりしたら「と    てもいい声」と言われたことがあって、高校入学した時にピアノをやりたいと思うようになりまし     た。でも、音楽大学のピアノ科に入学するためには、最低でも毎日5〜6時間も練習しなけれ     ばならないと聞いて、それも辛いかなと思って声楽の勉強も同時に始めました。声楽を選んだ    のは一人の先生との出いによります。その時までは東京芸術大学に入学するとは夢にも思っ     ていませんでした。ただ、宇都宮大学に助教授とし来られていた東京芸術大学の非常勤講師    の鷲崎良三先生しが、宇都宮市で何人かにレッスンをしておられた。ある方にその鷲崎先生    を紹介して いただきました。レッスンをしていただく時「東京芸術大学を受験すると言わないと、    たぶんレッスンしもらえないわよ」とアドバイスを受けました。鷲崎先生から始めてきちんと“声     楽”を習いました。
 
井上 そうしますと、特段優れた音楽家との出会いがあって、感動したとかということはなかったわけ    ですね。
    
下村 それは私の場合はなかったですね。その頃宇都宮には音楽ホールもなかったですし、         初めて音楽に出会ったのは学校の音楽会の時、その当時バイオリンの天才少女と騒がれて、     小学生のうちに宇都宮市から東京に移られた広瀬悦子さんが、音楽コンクール前にいろん     な所で演奏したいということで、私たちの学校でバイオリンの演奏をしてくれた。それを聞いた     のが最初でした。 それ以外は、商工会館でハーモニカや指笛の演奏を聴いたぐらいでした。
     明治生まれの父は、私が音楽をするのは大反対でした。

園長 お父様は反対でしたが、音楽には関心が高かったのではないですか。

下村 父の関心は、歌舞伎その中でも琵琶演奏。琵琶を習うならどんなものでも許すぐらい好きでし    た。 三味線やお琴ではなく枇杷でした。

井上 そうしますと、お父様が歌舞伎でお母様がお琴が趣味ですから、音楽家の道を目指されたの     はご両親の影響の方が強いでしょうか。

下村 でもね、うちは早い時期からテレビがありました。父がテレビの歌舞伎中継があると、そうする    と私を膝の上に乗せて、歌舞伎中継を見せるんです。「これが義経の千本桜」とか説明されて、   それが大変で非常に嫌でした。母のお琴の方が好きでした。

井上 私が前に住んでいた借家の隣にも、お琴のお師匠さんがいて毎日のようにお琴を弾いており     ました。

下村 いや、そうでもなかった。趣味に音を出していた程度でした。

井上 今振り返ってみられて、音楽に関してお父様やお母様からの影響はどの程度あったとお考え     ですか。

下村 音楽に関する限り全くありませんね!

園長 特別なことがなくとも、体には浸み込んでいるでしょうね。胎教のことを考えましても聞いていた    ものは、無意識だけれども覚えていると言いますから、生活環境にあった音楽的なセンスは入    っていたのでしょうね。

下村 そうそう、母と一緒に買物に行く時、「夕焼け小焼け」「どんぐりころころ」「七つの子」とかいつも    歌ってくれました。父が歌った姿は見たことがありませんでした。

井上 当時は、音大に入学する方は極めて少なかったわけですから、ご両親のご理解をいただくこと    はとても困難だったのではないでしょうか。

下村 父は、絶対反対でした。
    「女たるもの女学校を卒業したら、一通りの花嫁修業をしてお嫁にいくべし」と言っておりました。
    母は大賛成してくれました。
    「これからの女性は、自分に自信のもてるものを身につけなければ」と言っておりました。

井上 芸大に入学されたのは1963年ですから、その当時のことですからお父様が絶対反対されて     いたのでは、芸大入学はかなり困難でしたでしょう。

下村 でも私はそんなことはおかまいなしの人間ですから、父がなんと言おうと自分の考えを貫きまし    た..

井上 芸大時代の話に移りたいのですが、芸大の入学試験はどのようなものでしたか。

下村 私の時は、5次試験までありました。
    1次・2次・3次が声楽の実技試験で、次々と振り落とされていきました。
    4次がピアノの実技試験と楽典関係でした。
    5次でようやく学科試験がありました。国語・英語・社会の3科目だったと思います。

井上 下村先生は声楽科に入学されましたが、そうしますと声楽家に入学された方もピアノが弾けな    いと入学できなかったわけですか。

下村 もちろん、そうです。

井上 芸大の場合は、1つの科の定員が20人位だったようですが、声楽科の募集人数は何人でした    か。

下村 声楽科の定員は50人です。
    鷲崎先生足を悪くされ入院されたため、戸田敏子先生を紹介してくださった。芸大1年生     からの4年間は戸田先生でした。戸田先生が芸大に入学してからも採ってくださった。

井上 「採ってくださった。」そんな言い方が実態ですか?

下村 それは、そうです
    有名な先生は、何人も受験生を持っているわけですから、そうすると学生の少ない先生に回さ    れるわけです。戸田先生は当時まだ非常勤講師だったから枠があったわけです。

井上 芸大の4年間は、音楽に打ち込まれたのですか。

下村 いいえ、私は音楽がなけれが生きていけないというようなふうではなかった。
    学生の中には、朝からLPレコードを聴いて、音楽に関心を集中している人もおりましたが、私は    然々そうではなかったです。声楽よりもピアノを弾いている方が、芸大時代は楽しかった。でも    、負けず嫌いですから勉強しないわりには成績は良かった。卒業までには、教員試験はもちろ    ん全部取得しましたが、学校の先生にはなりたくなかった。
     だからといって、一般の仕事も余りしたくなかった。大学院に進めば仕送りが続くのではと考    えて、大学院に入学しました。私が大学院に入学したのは、芸大に大学院制度が出来て3年     目でした。

井上 芸大の大学院の声楽科の定員は何名でしたか。

下村 それが、独唱科とオペラ科の2つに分かれていまして、オペラ科の人数は多かったですが、オ     ペラ科に入学した学生は独唱オペラ科の授業に出席出来なかったのですが、独唱科に入学し    た学生はオペラ科の授業に出席出来た。それで私は独唱科に入学しました。定員4〜5名だっ    たと思います。。

野尻 4〜5名ですか。個人レッスンと同じですね!

井上 そうしますと芸大の大学院までの学歴は、ドイツのフランクフルト音楽大学でも非常に役立っ     たわけですね。

下村 もちろん、ですからフランクフルト音楽大学でも普通の授業は免除され、レッスンの授業だけ受    けました

井上 最近では、アルバイトをしながら学生生活をしている人が大半ですが、先生はいかがでしたか

下村 皆さん合唱団やピアノレッスンのアルバイトをよくしていましたが、私はピアノを2人ぐらい教え     ましたが、それ以外何もしませんでした。わりときちんと家から仕送りがありました。

井上 芸大に入学されている学生さんは、やはり裕福な家庭が多かったですか。

下村 まちまちでした。サラリーマンを10年してお金を蓄くわえて入学したとか、学校の先生をされて    から入学してきたとか、女の人は比較的裕福だったかな、男の人は差が大きかったですかね。

井上 授業料は国立でしたから、お安かったですよね。

下村 大学の授業料が、年間9,000円・入学金が3,000円
    大学院の授業料が、年間12,000円でした。

野尻 貨幣価値が全然違いますよね。

下村 でも、私立の音楽大学の授業料は、年間20〜30万円の時代でしたから芸大はとても安かっ     たです。
     大学院で師事していただいた先生が、中山悌一先生でした。中山先生は長いことドイツで     勉強して来られた方です。戸田先生も中山先生も同じ系統の先生です。、ドイツ・フランス系    ・イタリヤの3つに分かれるわけです。私は最初からドイツ系でしたから、やはりドイツに留    学したいという気持ちはいつもありました。でも、最初の頃は勇気がありませんでした。
     大学生の頃から洗足学園の講師とか、演奏会とか仕事が入っていましたが、このまま歌い続    けたら、いつかは駄目になるという恐怖はいつもありました。息継ぎが苦しいこれでいいわけが    ないという気持ちでした。

井上 息継ぎが苦しい?

下村 発声的に苦しい。
    それを、中山悌一先生は「ドイツの声楽家はそうじゃないよ」とおっしゃるんだけれども、
    「どうしたらいいか、僕にもわからん」と言っておられた。
    西欧の声楽家と違うということはわかるけれども、
    「どうしたらいいかということは、教えられない。わからない。」と言っておりました。

井上 日本にいたのではそこから先に進めない。そういう結論になりますね。

下村 そうです。それで、ドイツに留学するしかないと考えるようになりました。

井上 ドイツ留学に決断が出来たのはいつ頃でしたか。

下村 ええと、大学院生の時ですから1969年ですね。1ヶ月半ほど下見と評してドイツに行って来    ました。最初からドイツ留学するほど勇気がなかった。まだまだ留学する人が少なかったですから

園長 1969年当時ですからね。

徹   費用はどのぐらいかかったの。

下村 飛行機代と下宿代も込みで、1ヶ月半の費用が40数万円でした。

井上 それは、ルートがあったんですか。

下村 そうそう、私の同級生で1年前に同じルートで行った人がいて、「とても良かった」と言うのを聞    いて私も行きたくなった。

井上 どこに行かれたのですか。

下村 ハイデルベルグ市の語学学校で、ドイツの国の様子やドイツ語の簡単な勉強をしました。
    ドイツの学生が夏休みになると皆田舎に帰る。そうすると学生寮が空っぽになる。そこを借りて    住んだわけです。

井上 そういう方法があったんですか。

下村 今でいう短期留学制度ですね。

井上 1ヶ月ドイツに住んでみて、その印象はいかがでしたか。

下村 これなら、いつ来ても大丈夫だなと思いました。

徹   ドイツ語は大体通じたの。

下村  何とか身振り手振りでしたが。
  


              






下村 これなら大丈夫だと思いつつ、5年の歳月が経過してしまいました。

井上 そうですか、私は大学院卒業されてからすぐに留学されたとばかり思っておりました。

下村 いやいやそうではなかった。

井上 ハイデルベルクでは、大学でレッスン風景を見せていただくとか、音楽との出会いはありました    か。

下村 ハイデルベルク音楽大学には入学しておりませんでしたし、学生は夏休み中でおりませんでし    たので、全く見ませんでした。

井上 その当時、音楽のためにドイツに留学されている方はどの位おられましたか。

下村 どの位でしょうか。日本人の留学生は音楽の勉強のために行くのはベルリン・ミュンヘン・
    ウィーンの3都市でした。当時日本人の留学生は、皆優秀な人しか行きませんでしたから、日     本人は優秀だという高い評価がありました。
     現在は、私立の音楽大学に入学するよりは、ドイツの大学に入学するほうが授業料が安い     のでドイツ留学する人が多いようです。

井上 大学院を卒業されて留学するまでに、5年間のブランクがあったということですが。

下村 洗足学園大学の非常勤講師しておりました。二期会オペラに出演したり、それから演奏会など    目の前のことをこなして行くと、時間が過ぎて行きました。それでお金を蓄えて自費留学しまし    た。

井上 5年後、ドイツ留学がどのように開けていったのですか。

下村 ゲルトルーデ・ピッツィンガー教授の元で勉強していた人が日本に帰ってきた。
    その方からピッツィンガー教授の話を聞きました。「私も指導を受けたい。」とピッツィンガー教     授に手紙を書いたら、「とってくれる。」という返事をいただいてフランクフルトに行きました。ピッ    ツィンガー教授の指導を受けるためにドイツに留学をしました。
      まず、私は観光ビザでドイツに行ってしまった。観光ビザでは3ヶ月か半年ぐらいしか滞在で    きなかったのです。「音楽大学に席を置きましょう。」というピッツィンガー教授の勧めで、教授     が教鞭をとられていたフランクフルト大学のオペラ科をに入学したわけです。しかし、私の目的     はあくまでもピッツィンガー教授のレッスンを受けることでした。

井上 それまではピッツィンガー教授のことを、ご存じなかったのですか。

下村 全く知りませんでした。

井上 ピッツィンガー教授の指導を受け日本に帰国された方の話を聞いて初めて知ったそうですが、
    その話の中のどこにドイツ留学をされるほどの魅力を感じられたのですか?

下村 私の直感なんです。
    この先生の指導を受けてみて駄目だったら、そこでまた考える。
    ところが、フランクフルトに行ってピッツィンガー教授の指導を受けてみたら素晴らしかった。

園長 その時、ピッツィンガー教授は何歳ぐらいでしたか。

下村 73歳でした。

園長 その辺はとても不思議ですね。その時下村先生が求めているものが発散されていて、ピッツィ    ンガー教授もそういうものを持っていて、磁石みたいに引き付け合ったんですね。

下村 そうですね。もし、私が東京芸術大学院を出てすぐにドイツ留学をして、どこかに行ってしまった    としたら、これほど真剣に勉強しなかったと思いますね。
    ピッツィンガー教授のレッスンが凄かったですから、素晴らしかったですから。

井上 初めてのレッスン風景が、なかなか印象深いですね!

下村 私が、絶対に自信のある曲を歌ったわけです。





ピッツィンガー教授からレッスンを受ける下村先生






井上 ドイツ語の歌でしたか。

下村 もちろん私の大好きなブラームスとバッハ。それも、私が何遍も演奏会で歌ってきた自信満々    の曲を歌ったのにも関わらず、たった2小節しか歌わせてもらえなかった。
     フランクフルトに行った最初のレッスンは、全部聞いていただき「大変良い声だ。」と一言言っ    てくださっただけ。それで、次のレッスンから徹底的に直されて、歌わせてもらったが、1時間の    レッスンでたったの2小節だけでした。

一同 う〜ん、う〜ん。

下村 もうもうもう、私のプライドはズタズタでした。
    今まで私は何をしてきたんだろうかと。
    今まで芸大では言われたことのないことを言われました。

井上 ドイツ語で教えられたんですか。

下村 もちろん、ドイツ語です。ピッツィンガー教授は、60歳からは一切歌われなかった。
    「あれが往年のピッツィンガーか。」と言われるのが嫌で、「私は歌える時に引退した。」と言っ     ておられた。それで私も60歳に非常にこだわってきたわけです。

井上 そうでしたね!
    下村先生も60歳になったら現役を引退すると、何年も前から言っておられた。
    それで、遠くは北は北海道から南は神奈川県までお世話になった方々をお招きされて、還暦コ    ンサート開催されたわけですね。

園長 ピッツィンガー教授が60歳以降、公の場所では歌われなかったようですが、普段の生活の場    ではいかがでしたか。

下村 それはもうドラドラ声で、全く歌わなかった。
    先生がお手本に歌って、私を指導してくださったことは一度もなかった。

園長 それは、びっくりです。

井上 それは、残念でしたね。

下村 「違う違う、そうじゃない。」というだけ。

園長 歌の先生が歌わないで言葉だけで教えるとは、これもまた凄いことです。

井上 ピッツィンガー教授の全盛期の歌声はテープなどに残っていないんですか?

下村 残っています。それは素晴らしいものです。

井上 一度聞かせていただきたいのものです。

下村 私がちょっと歌いだすと大きなアクションをしながら「Halt! halt!(止まれ! 止まれ!)」と    言われる。それは物凄い情熱を傾けたレッスンでした。先生はご自分で歌えないので凄く辛か    ったと思います。

園長 素晴らしい歌声の持ち主が、そんなにドラ声になってしまうのですかね。

下村 ピッツィンガー教授は60歳過ぎて「歌わなくとも良いと思ったら、どんなに楽になったかわから    ない。」とおっしゃっていました。

一同 「・・・・・・・・・・・・」



                           

                              ピッツィンガー教授と下村先生


下村 私もそうですけれど、朝起きて「ア〜ウ〜 ア〜ウ〜」と声を出してみる。「今日は声の調子が     良い。」と思うわけですよね。

一同 あ〜そうですか。

下村 「それをやらなくとも良くなって、どんなに楽になったか。」と言われていた。
    55歳頃から徐々に歌わなくなっていったようです。

井上 70歳を越えて情熱があるというのは、大変なことですよね。

下村 そのレッスンは凄かったですね。 まさに全身全霊ですよね!

井上 そのレッスンは、週何回ですか。

下村 1回1時間ずつ週二回。、1回は発声のテクニックだけ、もう1回は先生はピアノが弾けたんで     すが、私のためにピアニストを呼んで伴奏をさせレッスンを受けました。

徹   レッスン料はいくら位払っていたの。

下村  5,000円位払っていたかな。

徹   他の指導者と比べてどうだった。

下村  他の指導者と比較したら格段に安かった。
     それが、段々お金は要らないから来るようにと言ってくださった。
     ですから、本当に私に期待をかけてくれたんでしょうね!

井上  他にも生徒さんがいたんですか。

下村  ドイツ人が何人か来ていました。
     その後も、日本人も私がレッスンを受けていたと聞いて何人かがやって来たようですが、先      生の指導の仕方も全然違っていたようです。
       ヨーロッパの師弟関係は、ピッツィンガー教授だけでなく凄いんですよ。これぞと思った弟     子の育て方は凄いんですよ。

下村  先生の指導を受けるようになって1年以上経過した時だったでしょうか。
     「洋子コンサートをやってみないか。」と勧めるんです。
      そのコンサートは、ベーツマン銀行の頭取の自宅で若い音楽家を育てるために、コンサート     を開催していた。トレッペンハウスコンサート(サロンにラセン階段付きコンサート。広間だけ      でなく階段に座って聞く。))と呼んでいた。
      そうすると週2回ではなく「毎日来るように」というんです。

井上  下村先生としては、ベーツマン銀行の頭取宅の「トレッペンハウスコンサート」が実質的なデ      ビューと考えてよいですか。

下村  そうそう、私の初めてのリサイタルです。
     オーケストラとの共演とかソリストが4人いる中でアルトのソロというのはありました。でも、自      分だけで一晩に20数曲歌ったのはこの時が始めてでした。
      そうすると週2回ではなく「毎日来るように」というんです。
     「家で一人で練習すると悪い癖が付くので、家では歌うな。その代わり毎日レッスンに来るよ      うに。」と言ってくださった。1週間に5日ぐらい行った。お金は一切取らずに教えてくださった

一同  「・・・・・・・・・・・」

下村 そのベーツマン銀行の頭取宅の「トレッペンハウスコンサート」は、銀行関係者だけでなく、知     人友人・そしてあらゆる新聞社の批評家がやって来る。音楽関係者を含めて200〜300人集    まってくる。

園長 凄いですね。

徹   そんなたくさんの人数が家に入るの。

下村 もちろん、だって凄い豪邸なの。フランクフルトの大名士の家。
     コンサートの後パーティーがあって、入場料は一切取らない。ただし、今日演奏した若い音楽    家のために、寄付をしたいと思ったら、自由に箱に入れて帰る。寄付は出してくれる人も出して    くれない人もいる。そのお金を全額若い音楽家を育てるためにプレゼントしてくださる。

園長・井上  それは素晴らしい話ですね。日本では考えられない話です。

下村 “フランクフルターアルゲマイネ”という大きな新聞に載った私のコンサートの批評に「今でも残    っている芸術の保護者」という見出しが躍っていました。コンサートそのものの評価も高くて、そ    れから教会でのコンサートの仕事がたくさん来るようになりました。

徹   そのコンサートでいくら位寄付を受けたの。

下村 当時のお金で20万円位だったと思います。
    もちろん、ピアニストのライナー・ホフマンが伴奏してくれたので、そこから謝礼しました。






   下村先生とライナー・ホフマン氏    下村先生とライナー・ホフマン氏ご夫妻     




徹   ベーツマン氏は、お金は一切取らなかったの。

下村 もちろん、しかも出席者に食事をもてなしても何も取らなかった。その上に私と伴奏者に素晴ら    しい花束までくださった。

井上 そのコンサートの批評が載った新聞は残っていないのですか。

下村 私は、そういうものを残して置かない方です。取っておいたファイルにしても兵庫教育大学の助    教授の公募があった時、全部文部省に送ってしまった。当然写真も何枚かあったはずですが、    今は何も残っていません。

徹   そういう記憶は、全部捨てちゃうんです。

下村 何でも捨てちゃう。

園長 ね〜もったいない!

徹   ピッツィンガー教授に次のコンサートの連絡があったんでしょう。

下村  そうそう、ピッツィンガー教授とベイツマン氏の奥様とは大変仲良しだった。ベイツマン氏の兄     弟も俳優をされていて様々なコンタクトがあったようです。






     ピッツィンガー教授




徹   その日の前夜よく眠れた。

下村 コンサートが終わった後、私の体はメタメタだったの。

徹  普段のコンサートは、全然緊張がないようです。コンサートを終えた日の方が眠れないそうです

下村 私は、普段夜歌う習慣がない。でも、コンサートの日は夜の間中歌が頭の中を巡っているの、    そういう意味で眠れない。

井上 還暦祝いのコンサートでご主人が挨拶の中で紹介してくださった練習風景は印象的でした。

下村 それはもう伴奏してくださった岡田知子さんです。
    岡田さんとの音合わせは、それこそピッツィンガー教授のレッスンのようでした。彼女の芸術に
    対する要求度の高さが違う。これは良いわね、それじゃもっとこうしましょう。やっているうちに、    それがどんどん出来るから、それは楽しいです。

園長・井上  う〜ん

下村 これっぽっちの妥協もしない。これじゃとてもじゃないけど出来るかなと思いますけれども、出来
    れば楽しい。それじゃもっとやってみようとなる。

井上 還暦祝いのコンサートは、5回も音合わせをされたといっておらましたが、
    普段のコンサートは5回も音合わせするのですか。

下村 やりますよ。

徹   急に頼まれるのは、嫌みたいです。

下村  いい加減なことは絶対やりたくない。

徹   コンサートの出演者が急に病気になったからと言って、代役は絶対だめだよね。

下村 湯布院音楽祭の場合は、小林道夫先生(チェンバロの演奏者)という日本のトップの伴奏者が    私を指名してくださったわけです。
     小林先生とは、それまで東京で何度か演奏会をしている。湯布院の音楽祭で歌う予定の主     演者が2日前にかぜでダウンした。大穴が開くどうしようかという時、小林先生が「中村洋子
    (下村先生の旧姓)さんならできる。」と言ってくださった。

一同 う〜ん

下村 そんな何度もご一緒に演奏会をしたわけではないんですが、突然電話があって「あらゆる音符
    をもって湯布院に来てください。」と電話がありました。

下村 私が小林道夫先生に対する100%の信頼があったので出来た。
    どんな伴奏者かわからない人、ただただ弾くだけの伴奏者なら絶対やらなかった。
     こんなに沢山の楽譜を持って、飛行機に飛び乗って行った。湯布院で「これと、これとこれに     しましょう。」湯布院音楽祭に来られた音楽関係者の方々が、わずか一日で全部譜面を見ない    でやったのを見て驚いていた。それは、私がドイツで100回を越えるコンサートをしたし、帰国    リサイタルがあったからです。

井上 そのような場合は、プログラムが出来ていましたね。プログラムを書き換えたのですか。

下村 もちろん。当日急病で代役を立てたのでとお断りして、プロ分ラムを変更した

井上 それは、いつ頃の話ですか。

下村 1982年のことです。

井上 日本への帰国がいつでしたか。

下村 え〜と、1975年にドイツ留学したのだから、1979年(下村先生36歳)です。
    それはもう、ドイツ歌曲のレパートリーはすごくあったわけです。

井上 ドイツでは確か100回以上のコンサートをされたと伺っていますが、100回を超える演奏活動    を重ねていく、道筋はそれほど多難ではなかったのですか。

下村 そうですね。

井上 最初のスタートが良かったからですか。

下村 そうですね。

徹  ピッツィンガー教授経由でコンサートの依頼が来たの。

下村 もちろん、最初はピッツィンガー教授が「良いアルトがいるよ。」と声をかけてくださった。
    そのうち、私の歌を聴かれた方の中に、いろんな方がおられたから「今度はうちの教会で歌っ    てください。」と声がかかった。その広がりがすごかった。
     教会には必ず音楽責任者がいる。クリスマスとかイースター(イエスキリスト復活祭)などには    必ずコンサートをする。教会の聖歌隊それにフランクフルトラジオ放送管弦楽とかどこかの室内    楽団を呼んで、ソリストだけは外部から招くわけです。

井上 教会のコンサートは、礼拝堂で行われるのですか。

下村 そうです。

井上 ドイツ教会の礼拝堂は、石造りですが音響効果はいかがですか。

下村 ほとんど響きすぎです。石作りですし天井はドーム式で壁は凹凸があり、反響がものすごく良     過ぎです

徹  日本人の娘が歌うのに抵抗感がなかったの!

下村 そういうところは、許容範囲が大きいですよね。

徹   クリスチャンでもないのに。

下村 だから、ドイツ人歌手と同じレベルだったらドイツ人を招くでしょうが、それよりは少し良かったん
    でしょうか。

徹   ピッツィンガー教授は、洋子がドイツで演奏活動をしていた時、お弟子さんの中に洋子以外で    推薦する人が他にいたの。

下村 私だけ。でもピッツィンガー教授は私を売り込むなんて、私と同じように絶対にしないし出来な     いの。

一同 う〜ん。

下村 でもね、私にはこう言うんです。コンサートが終わったら必ずパーティーがあるんですが、「パー    ティーがあったら必ず出てきなさい。そして次の仕事を取ってきなさい。」と言う。

一同 笑い。

下村 私は、それがもう嫌なの。
    コンサートで疲れ果てた上に、ドイツ人だけの中でドイツ語での会話。「もう嫌だ。」と思ってほ    とんどパーティーに出ないで帰ってきちゃうんです。そうすると、ピッツィンガー教授に「お前は、    馬鹿だ」 「どうして残って次の仕事を取って来ないんだと。」と叱られた。
     でも私は、「そんなことまでして仕事は欲しくない。」と心の中で思ったものです。

一同 笑い。

井上 コンサートは、何時ごろから開始されたのですか。

下村 夜の8時です。

井上 夜の8時がコンサートの定刻ですか。

下村 そうです。

井上 コンサートは60分位ですか90分位ですか。

下村 教会のコンサートの場合は、マタイの受難曲とかヨハネの受難曲ですから2時間はかかる。
    ですから、パーティーが始まるのは10時半、終わるのは必ず夜中です。

一同 笑い。

下村 だから、一番悲しかったのはコンサートが3日位続くことがある。

徹   クリスマスシーズンなんかは続くわけだ。

下村 3日目。そうするとドイツ人は、パーティーに出てワインを飲んでケロッとした顔で次の日も来る    。 でもこっちは体力の限界、そういう意味では悲しかったですね。




井上 ドイツやヨーロッパで100回以上されたというのは、カウントされていたんですか。

下村 プログラムが残っていたのだけで80数回分あった。それ以外にあそこでもやったここでもやっ    た。というのを数えれば100回は確実なわけです。

井上 その100回を越えるコンサートの最初のベイツマン邸でのトレッペンハウスコンサートというの    は、いろんな意味で大きな出来事でしたね。それ以外に印象深いコンサートがありますか。

下村 ヘルムート・リリングという人とのコンサート。これはフランクフルト音楽大学のホールでした。
    今でも現役でしょうか。私がドイツにいる頃は、神様的な扱いをされていた方です。日本にも
    何度か来ています。ヘルムート・リリング氏の招きで歌ったことはやはり印象的でした。
     それから、へルムート・バルヒャ氏、盲目のオルガニストです。レコードも沢山出しています。
    もうとっくに亡くなりましたが、フランクフルト在住でした。その方の専属の教会がフランクフルト    にあって、その教会でバルヒャ氏の伴奏で歌いました。それは大変な名誉でした。

井上 ドイツは下村先生にとっては最高の音楽環境だったとのことですから、「お母さんの病気がなけ    れば、生涯ドイツで暮した。」と言っておられましたね。最高の音楽的環境という点をもう少し説    明していただけませんか。

下村 第一にオペラハウスやコンサートホールなどの演奏する場があること。それから、音楽を聴くこ    とのできるコンサートがいつもあること。

井上 いつもですか。

下村 いつもコンサートをしておりますから、自分が演奏するだけでなく、聞く立場になれる。そこで吸    収するものは非常に大きかった。
     それから、日本と音楽自体が違います。
    音楽自体が違うという言い方は少しおかしいですが、私の歌は日本ではおそらく異質でしょう
    本当に本当に、私の歌を分かってくれる人がどの位いるか。分かってくれている人は、本当に    歌が分かる人でしょうね。!

徹  先ほどの岡田さんとの音合わせの時の話のように、さらにさらに上を目指していく話など何人が   分かってくれたか、私なんか全然わからない。




                  

           伴奏者の岡田知子氏 「還暦祝い記念コンサート」の歌の解説をされているところ




園長 私は凄いと思って見ていた。
    岡田氏のピアノの伴奏も凄いと思って聞いておりましたが、下村先生の歌が凄いと思って聞い    ていた。どうして、こんなに歌の世界が広がるのかなと思いました。

徹  伊藤さんなんかが、パノラマのように洋子の歌を理解出来るのかね。

下村 還暦コンサートで、伊藤さんや芸大の仲間が「素晴らしかったね!」と言ってくれたのが一番嬉    しかった。伊藤さんは世界を歩いて一流の音楽を聴いてきた人でしょう。「良かったよ、洋!」と    言ってくれた。伊藤さんの批評が一番恐ろしかった。

井上 そういう意味では、先ほど話されたドイツの音楽的環境が素晴らしいという中には、聞き手の     問題もありますね。

下村 もちろんあります。

井上 日本人は、平均的には一年に一度コンサートを聴くか聴かないかですから。

下村 でもね、日本の一番悪いのは教える指導者が悪い事が悲しいですね。

井上 それはどういう点ですか。

下村 全てです。ただ音符をバチャバチャ叩いているだけ。音楽学校を卒業しただけで、こんな小さい    子を教えるのでしょう。その子達がピアノが嫌いになる。子ども達の芽を摘んでいる。

井上 日本の小学生に「学校で楽しい事は何?」と聞きますと、給食や休み時間・体育・図工が挙が    ります。 音楽を挙げる子どもは極めて少数派です。

下村 小さい時からピアノを習わされて、間違ったからといって叱られて、そんなのはもう子どもにとっ    て凄く嫌じゃないでしょうか。楽しいことが何もないんじゃないですか。

井上 下村先生が以前話してくださったことですが、「ピッツィンガー教授のレッスンは、私の長所を引    き出してくれた。下村先生のレッスンも基本的には同じようですね。
     でも、先ほどの話にありましたように、ピッツィンガー教授のレッスンは厳しくて一時間のレッ     スンで2小節しか歌わせてくれないほどでしたが、ピッツィンガー教授のレッスン方法は途中で    変わるんですか。

下村 だってピッツィンガー教授は、最初から私の良い所を見抜いておられた。
    その良い所を残しながら、しっかりした歌にしたかったわけです。そのためには、厳しいレッスン    は絶対通らなければならない道だったわけです。

井上 いつまでその厳しいレッスンは続いたのですか。

下村 帰国するまで続きました。

井上 5年間ず〜と。

下村 もちろん。最後の頃は、私の歌を聞かせてという感じでしたが。

井上 下村先生が帰国された時、ピッツィンガー教授が77〜78歳で、94歳で亡くなられるまで、
    帰国されてからも、毎年のようにピッツィンガー教授にお会いに行かれていましたね。

下村 必ず行きました。
    行ってレッスンしていただいて、指導をを受けてきました。
     日本の音楽大学を卒業してヨーロッパに留学する人達は、ヨーロッパの音楽を聴いてどうし      て日本の音楽と違うのだろうかということは分かるんです。留学中にその違いがなんとなく分     かってくるんです。でも、日本に帰国してしまうと“元の木阿弥”日本に帰ってくると駄目になっ     てしまうことが多いわけです。

井上 う〜ん、そうですか。

下村 それで、私は絶対にそうなりたくないと思って、帰国してからも毎年ピッツィンガー教授の所に     レッスンを受けに行っていた。
      岡田知子さんは、日本にいてどこか違うなと思って、留学し必死に勉強したわけです。それ    であれだけになった。お互いに凄く理解し合える。

徹   岡田さんも、スイスに毎年行くのはレッスンを受けるため。

下村 岡田さんは仕事よ。スイスにいる世界的に著名な先生が「彼女の伴奏じゃなければ」と言わ      れるそうです。世界中から集まって来る著名な音楽家の伴奏を沢山している。

園長 そうですか。

下村 そのレッスン風景を全部彼女は、体中に浸み込ませている。
    それで、「還暦祝いコンサート」での岡田さんとの音合わせは、ピッツィンガー教授のレッスンど    ころではない、それは厳しいものでした。岡田さんは、自分ではピアノを弾くだけで歌えないけ    れども、耳は凄い。

一同 う〜ん。

下村 音合わせの時、私がちょっとでも、ほんのちょっとでも違うと指摘してくれた。
    それが素晴らしかったですね。
     いつもならコンサートをやる場合は、私が伴奏者を教えなくちゃならない立場でしょう。
    でも岡田さんとは全くそれはなかった。むしろ私の良い所をどんどん引き出してくれた。だから     凄く楽しかった。

徹   全然分からないね。

下村 他の伴奏者で歌う時は、前奏や間奏を聞きながら違うんだよね。ここは違うんだよなと思いな    がら、歌っている。
     岡田さんとは、全然そんな所はない。そんなふうに伴奏してくれるのか、そんなら私はこう表    現しようと、ボールの投げ合いが起こる。ドイツにいる時は、ライナー ホフマンの伴奏が巣晴ら    しかったんです。

徹   普通のコンサートの時は、我慢して歌っているということ。

下村 もちろん、もちろん。
    違うと指摘しても、言っても分かることでもない。指導してすぐに直せるものでもない。
    テクニック・芸術性など全部が出来てきて、岡田さんのレベルに達する。
     時間的に、物理的に待って出来る事ではない。帰国してからは、ライナー・ホフマンとのコン     サートのようなことは出来ないと思って凄く悲しかった。それが、岡田さんと出来て凄く楽しかっ    たです。 
     人に教えるのもピッツィンガー教授のようなあの情熱があり、それを可能としてくれるピアノ伴    奏者がいればやりますけれどもね。

井上 ピッツィンガー教授の情熱を傾けたレッスン風景を考えますと、ご自分では歌えなくなり、ご自     身が高齢になってきて、後継者のことも考えてのことでしょうか。

下村 ご自分がやってきたことを、誰かに伝えたいと思ったのでしょうね。
    私が今お弟子さん達のレッスンに厳しいんです。残したいと思いますよ。良い楽しい歌い方、     そうじゃない、こうだというものを残したい。

井上 下村先生の伴奏を数多くされている原直子先生(下村先生がさつき幼児園児に歌の指導をさ     れる時のピアノの伴奏をしてくださっている。)が、こんなことを言っておられた。「下村先生とご    一緒されることが多いが、普段下村先生はご自身のことをほとんど話さない。むしろ、さつき幼     児園で歌の指導をされた後の会話で、先生はそうだったんだということが多い。」と言っておら    れるのを聞いて、私は驚いたことがあります。先生は身近な方々特に音楽関係者には、ご自身    の経験を歩んだ道程を、当然話しておられたと思っておりましたのに。

下村 話さないですね。徹さんにも話さないよね。

徹   聞いたことがない。

井上 そういう意味では、下村先生は丁寧にお話され返事をしてくださる方だと思っておりましたし、     実際私は沢山のお話をお聞きしていましたから、下村先生の歩んできた道をご存知の方が非    常に少ないことは驚きです。このホームページ「下村洋子先生物語」はそのような意味でもお     役に立てるかもしれません
    
井上 音楽を志す若い方々の参考になるような、ピッツィンガー教授の思い出が、ほかにもありませ     んか。

下村 ピッツィンガー教授の強烈な印象というのは、
    ドイツ人というのは、すごく大きいじゃないですか、ピッツィンガー教授は本当に小さかった。
     それが、初めてフランクフルトのお宅を訪ねた時、失礼ですが「魔法使いのおばあさん」のよ     うなガラガラ声で、決して美しいとは思えなかった。玄関のドアが開いてピッツィンガー教授に     初めてお目にかかった時「あなたがピッツィンガー教授ですか。」とお尋ねした位です。
     昔、往年の大歌手とは程遠い印象でした。とても綺麗な身なりをしていましたが「目の前にい    るこの人が往年の大名歌手?」と思ったほどでした。
     やがて、私がベイツマン・バンク・コンサートをする直前、不安が一杯で私がショボクレていた    のを見て、ピッツィンガー教授が「洋子、舞台に一歩出たら、洋子の世界だよ。そこに出て行く    一歩から全てが前の世界だからね!」と言って、隣の部屋に入って行った。何をするのかと思    っていたら、昔は、綺麗なレースのハンカチを手首にこうして巻いて、ちょうど映画なんかに出     てくる貴婦人がするように、そしてレッスン室にサーと出て来た。もうそれが、パーと“オーラ”が    広がって“素晴らしく綺麗だった”。

井上 下村先生がコンサートに出かけた時、「演奏者によってオーラが出る人と出ない人といる。」と     よく話しておられましたね。

下村 「ああ、ピッツィンガー教授は綺麗でした。」と先生を知っている方が言っておられたことが、そ     の時分かりました。あの小さくて魔法使いのおばあさんのような人が、「もの凄く綺麗だった。」    一瞬往年の名歌手時代に戻っていたのでしょうね。

井上 それは、下村先生の普段の姿と、舞台に立った時との違いに似ていますね。

下村  笑い。

徹   いろんな方が同じように言いますね。



                                                                                      

                                 下村 徹  氏



下村 それは、自分では分からないことです。

一同 う〜ん

下村 ですから、ピッツィンガー教授の友人の方にも何度かお会いしたことがあります。
    「本当にこの人が、大指揮者の下で演奏活動をしあんなにレコードを残した人か?」と思うこと    が何度もありましたが、それが,一端舞台に立った時の輝きが凄いです。
     本当に立派な人というのは、偉ぶらない人だなと思いました。日本は、そうじゃない。外国か    ら帰って来た途端えらぶってしまう。中身のない人は一生懸命枠を作っ偉ぶってしまう。

園長 舞台に出たら、オーラがない。

一同 笑い。

下村 岡田さんだってそうです。
    その辺の普通のおばさん、歌合せをするのでJR雀宮駅に迎えに行くとどこのおばさんかと思う    。 しかし、ピアノを弾いている時の顔は素晴らしい。

井上 厳しかったピッツィンガー教授の「指導を受けるんだ。」と判断された理由は、今までお話してい    ただいたことのほかにもあったんですか。

下村 それはもう、今まで一度も出なかった声が出た。今まで出したことがない声が出せた。日本で     は一度も注意されたことがないことを、教えてくれた。それで「もうこの先生に付いていく外はな    い。」と思ったわけです。

井上 それは、最初の頃からですか。

下村 そう最初の頃から、今まで私は何をしてきたんだろうと思った

園長 やっぱり、出たことのない声が出たのですか。

下村 そう、歌う時楽なんです。
    今までなら、1時間も続けて歌っていたら喉がヒリヒリしてきた。

徹   同じ事を洋子のレッスンを受けた生徒さんがよく言います。

下村 そうそう、「先生のレッスンを受けた時は、どうしてこんなに楽に声がでるのでしょう。」と言いま    す。

園長 私もレッスンを受けている時に声が出るのに、園児の前に立つと歌えないのだろうと思います

下村 ですから、ピッツィンガー教授はコンサート前は毎日レッスンに来るようにと言いました。

徹   ピッツィンガー教授の全盛時代の映像を見たことがあるの。

下村 ない、ない。

徹   レコードで聞いただけ。

下村 そうそうピッツィンガー教授も私と同じで記念になんか何も残そうとしない方。
    でも、ドイツの各放送局で放送されたものが残っている。伊藤さんがそれをやっと全部集めてカ    セットにしてくれました。

井上 その伊藤さんのほうが、下村先生の資料を保存しているかもしれませんね。

一同 大笑い。

井上 ピッツィンガー教授の下村先生に対する遺言のようなものはあるのですか。

下村 それは何もない。

徹   「歌の楽譜を全部洋子のために残したので、洋子が持っていきなさい。」と言ってくださったそ     うですが、「いらない。」とお断りしたそうです。

下村 いや、記念にいくつかはいただきました。

園長 ピッツィンガー教授は、ず〜とお一人で過ごされたのですか。

下村 戦後の混乱期に旧ドイツ領昔のチェコスロバキャに住んでいて、ドイツ国籍なのでなかなか出    国出来なかった。演奏仲間だったデンマーク人ディポンさんと結婚して出国出来たそうです。そ    の後ドイツに住むようになってから「ピッツィンガー教授のご主人、ピッツィンガー教授のご主人    と、全てがピッツィンガー教授が先になり、それにご主人が耐えられなくなり離婚された。」とい    う話です。

井上 ドイツに在住されていた5年間で、100回を超えるコンサートをされたそうですが、最初のベー    ツマン銀行の頭取宅の「トレッペンハウスコンサート」がとても好評だったので、大きな困難も     なく順調な経過をたどったのですか。

下村 そうですね。
    ドイツでは、大学の授業料は無料ですし、お金がかかりませんから。食べ物も質素・着る物も     質素です。日本から沢山良い洋服だけ持っていたでしょう。でもドイツの学生は着のみ着のま    まのような生活ですから、そんなおしゃれ着は着られないというぐらいの感じでした。

井上 ピッツィンガー教授以外にも、思い出に残る方はいらしゃるんですか。

下村 あのね、ず〜とピアノの伴奏に来てくださったオット ブラウン氏、もう亡くなりましたが往年の名    伴奏者ですね。1週間に一度ピッツィンガー教授の所に来て、私がレッスンを受ける時伴奏し     てくださった。そのオット・ブラウン氏とピッツィンガー教授が話し出すと凄いんです。一つの歌た    とえば、ゲーテならゲーテの詩にシューベルトが曲を付けるでしょう。その詩に対して2人があら    ゆる角度に話題が広がっていく。 「あれはゲーテの本の何巻の何ページに出ているね。」とそ    こまでいくの。ピッツィンガー教授は「私の生涯は、ゲーテの本と対話するだけで満ち足りてい     る」というぐらいゲーテの信奉者でした。

井上 そうすると、お弟子さんである下村先生もゲーテに結びついている。





           

                        下村先生とオット ブラウン氏





下村 いや、そんなことはないです。
    でもピッツィンガー教授の詩に対する理解力とか暗記力は凄いですね。音読しながら覚えたそ    うです。 昔、日本でも「教育勅語」を暗記させられたように、昔の人はゲーテなどを暗記してい    たようです。ピッツィンガー教授もゲーテの本については全部インプットされていた。次々と出て    くる。

下村 ピッツィンガー教授の所に、大変古くて厚い本が2冊本棚に置かれてあった。それをカトリック     教会の司祭に寄贈したそうです。大変な価値がある本だといっておられた。

徹  ドイツ人の習慣らしいですが、ピッツィンガー教授は洋子に一年に一回コーヒーカップをプレゼン    トしてくださったそうです。



                              

          ピッツィンガー教授からプレゼントされたコーヒーカップ




下村 そう、そこにあるマイセンのコーヒーカップ、素晴らしいコーヒーカップはほとんどピッツィンガー     教授からのプレゼントです。マイセンは日本で買うと大変な値段がするのですが、ピッツィンガ    ー教授はマイセンの食器が大好きでした。
     ドイツ人は、銀のナイフとフォークを使い、素晴らしいお皿にソーセージと辛子をちょちょうと乗    せて簡単に食事をする。本当に食器類を大切にするんです。

徹  家族で何代も受け継ぎながら使用するそうです。

下村 ピッツィンガー教授は、大きなコンサートがあると、必ずその地方のマイセンに行って記念にお    買いになった。それが一杯あった。その中からいくつかを私にプレゼントしてくださった。

園長 ピッツィンガー教授は特に食事の好みがあったんですか。

下村  非常に質素でした。
     ピッツィン ガー教授だけではありませんが、ドイツの老人は第一次世界大戦と第二次世界大     戦を経験していますので、本当に質素でした。

園長 子ども達は、朝早く薄暗いうちに学校に登校し、持参した黒パン(ライ麦パン)を学校で食べ、下    校時間は早く昼頃には下校し、家庭で昼食を食べるようですが、大人の人はいかがですか?

下村 昔は男性も必ず一度家に戻り、昼食を摂っていました。
    今は、共働きなので外食しています。朝は、コーヒーか紅茶それとパンにジャムが定番です。

園長 油分は使用しないのですか?

下村 バターを沢山塗って食べる。私がドイツで下宿していた時、バターをパンに塗っていると、「どう    してあなたは新聞紙のように薄く塗るのか。1cm位に厚く塗りなさい。」とよく言われた。
     昼食は、バターを付けたパンにチーズかレバーペーストを入れて会社に持参するか、レストラ    ンで食べているようです。
     夜食は、帰って来て暖かい物を食べる人もいますけれども、もともとドイツ人はソーセージとチ    ーズにパンそれとワインかビールです。

園長 なにか、簡単でいいですね。

下村 簡単です。台所なんかピカピカですよ。

井上 魚料理をするから、日本人には部屋を貸したくないという話を聞いたことがあります。
    話は変わりますが、お母様の病気看護のためにドイツから帰国したのは、1979年のことです    ね。 
     その後、再びドイツに戻られるという選択肢もあったのではないですか。

下村  1982年には結婚し、1987年には主人が米国勤務になった。人生の大転機となりました。
     1989年に米国から帰国した時に、宇都宮市兵庫塚に家を新築しました。

井上 なぜ、宇都宮市に家を建てることにされたのですか。

下村 米国在住は、4〜5年のつもりで行きましたから、それが急に日本に帰ってくることになりました    から、東京にあった自宅は外国人に貸す契約がまだ数年残っているし、「それじゃもう宇都宮     市に家を建てよう」となった。

園長 宇都宮市が下村先生の故郷ですからね。

下村 故郷だし、うちのだんなさんはゴルフ狂でしたから。

一同  アハハハ・・・・・・・・

下村 ゴルフ場が近いし、定年までもうわずかだったから、じゃもう宇都宮にしょうと。
    ですから、私は非常に寂しい思いをしました。宇都宮での音楽活動なんて考えられませんでし    たから、私にとって音楽活動は全て終わりだと思いました。宇都宮のおばさんになるつもりで、    宇都宮に来ました。私の歌を分かってくれる人なんてどこにいるんだろうという感じでした。

井上 では、宇都宮市に住むようになったのは、ご主人の意向が強かったのですか。

下村 いや、「どうしようか。宇都宮でゴルフしながらゆっくりとね。」という感じでした。たまには、私が    やってきたことを少し分かってもらうために、サロンコンサートぐらいは出来るように家を作りま     した。ヨーロッパでたくさんサロンコンサートをやってきましたから、そんなことを考えてこの家を    建てましたが、音楽は終わりという感じでした。

井上 そんな思いで宇都宮に移って来られたのですか。

園長 そうですか。

下村 二期会の会員でありながら、歌えない人は山ほどいますから、、日本は東京にいなければ何も    出来ないところ。はっきり言って私の歌人生は終わりだなと思いました。

井上 アメリカに在住している時も、音楽活動が少なくなって寂しい思いをされたとのことでしたが、宇    都宮では一層少なくなった。

下村 そうそう、アメリカでは自分のコンサートをする機会は全くありませんでした。これから何とかし     ようとした時、滞在期間が予定したよりも短くなってしまいましたが、メトロポリタンオペラだとか    、ニューヨークに出れば、音楽に接する機会はそれはもうたくさんありました。
     宇都宮に住むことは、音楽という意味ではとても悲しかった。でも、私はプライドが高かったか    ら、いざとなれば歌えるんだという思いはありました。

一同  う〜ん。

井上 ところが、宇都宮の音楽活動が先生の予想に反してかなり広がってきましたね。

下村 そうですね。

井上 それはどこからスタートしていったんですか。

下村 それは原直子さん(ピアニスト。下村先生がさつき幼児園児に歌の指導する時のピアノの伴奏    をしていただいております。)
     原さんが、私の家でサロンコンサートの時に誰かの伴奏で来て、私の歌を聴き「凄い!」と思    ってくださった。あの方は、お付き合いが広いから。




                      

                            原直子先生とお父さん




井上 原先生がそういう役割をしてくださった。

下村 原さんは、そういうところは凄いです。

井上 さつき幼児園でミニコンサートを何度も開きましたが、こちらの希望する演奏家、たとえば琴・尺    八・太鼓・フルート・バイオリン・マンドリン・横笛とどんな演奏家でも連れて来てくださいました。

園長 宇都宮に移られたのはいつ頃ですか。

下村 平成元年ですから、何年ですか。

井上 1988年です。
    さつき幼児園で歌ご指導いただくようになったのは、いつからでしたか。さつき幼児園で“わら     べ歌”の指導をしていただいた鮎沢美香先生がご結婚され、“わらべ歌”の指導を継続できなく    なり、「後継者として私の先生がさつき幼児園の近くに住んでおられるので」と、下村先生を紹    介していただきました。

下村 1990年頃でしたか。
    それこそ、私はドイツ歌曲を専門に歌っていました。日本の大人の歌もあまり歌っていなかった    。それがいきなり、さつき幼児園児の歌の指導をと言われ「え、私出来るかしらと思いました。」     「子どもの前で、私は何を歌うんだろう。」と思いました。

井上 ご主人が「ボランティアのつもりでやったら」とアドバイスしてくださったと伺っております。






            さつき幼児園児の歌の指導される下村先生


                            







下村 そうです。宇都宮に来てとても寂しい思いをしていましたが、逆にドイツで勉強してきたものだ     けが歌じゃないんだと思いました。お陰様で、それも私の歌の広がりとなりましたよね。 
     少年院や栃木女子刑務所(教誨師をされていた。)で歌うようになったのも、さつき幼児園児    に歌を指導するようになってからです。

井上 先生の情感豊かな歌声が、日本の歌に非常がマッチする。
    「夕焼け小焼け」でも歌を聞いていると、日本人の中に夕焼けの原風景がありますから伝わっ    てくるものがあります。

園長 原先生は「普通ドイツ歌曲を専門に歌っている方は、日本の歌を歌われると何を歌っているか    分からない。」といっておりましたね。「あんまり言葉が響かない」と。

井上 ドイツ語の歌はドイツ語がわからないと情感といいますか、イメージ力が沸かないですね。
    先生は「情景を思い浮かべながら歌っている。」と言っておりましたね。

下村 情景を思い浮かべながらというか、歌っているうちに、その情景が出てくる。

園長 そのことが「還暦コンサートではっきりわかりました。一番前の席で先生の目を見ていて感じま    した。

下村 ちゃんと情景が見えている。

園長 先生が見えているものが、こちらに反射されているという感じがした。

井上 それは練習の時から、情景を思い浮かべながら練習をされているのですか。

下村 そうじゃないです。ただ言葉の意味を・詩の意味を考えながら歌っていると、段々情景が見え     てくる。




          還暦祝い記念祝賀会


                              



井上 「コンサートでドイツ語の歌を歌う時は、鉄腕アトムのように100万ボルトの電流を流すような     気持ちで歌っている。」と何度か言っておられました。

下村 そうそう。日本人の前で知らない言葉で歌うわけでしょう。エネルギーを発する方としては、
    何とか歌のイメージを伝えようとする言葉に対するエネルギーはもの凄いわけでしょう。
     例えば「森」という言葉一つとっても、その時ただ「森」という言葉を聴いても全然イメージがわ    かないわけではないですか。自分がその森をどういう風に歩いたかそれがなければ伝わらな     い。聞いている人は全然つまらない。

井上 その辺の所をもう少し解明できるといいのですが。

下村 まどみちおさんの作詞された「ぞうさん」があるでしょう。
    「ぞうさん ぞうさん どうしてお鼻が長いんでしょう。」たったこれだけの歌ですけれど、言葉を     削って削って残したものです。ですから、作詞者の書いていない行間に歌う人がどれだけ入っ    ていくか、それがなければ聞く人の心には入っていかない。だから演奏者によって、違って当     たり前。一人ひとりイメージが違うのだから同じようになるわけがない。
     「お母様と馬車で行ったよ。」という詩があったら、そのお母様がどのようなお母様だったか、    死んでいるのか生きているのかで、情感が違う、そういう作業が頭の中で出来ていないとつま    らない歌になってしまう。そして、そのイメージを表現するのは声だから、それを出すためのテク    ニックの勉強があるわけでしょう。
     出た声と自分の持っている歌に対する情感が、どのように一緒になった時に、観客にどう聞こ    えるのかということになるわけです。

井上 そうした情感を子どもの頃から豊かに持っておられたという感じはしますか?

下村 ないですね。全然ないですね!
    でも感じたことは、人に余り話さないで自分の中で楽しんでますね。

井上 自己とのそのような対話は、日常的にされていますか。

下村 それは、しょっちゅうやっています。
    どこかに出かけ風景を見た時、あの曲のあのイメージはこれなんだなということは、
    よくありますね。そういう感情は、いつもどこかで働いていますね。

井上 先生はよく旅行されていますね。感情を磨かれるために、自然の中に出かけて行かれるので     すか。

下村 だからと言って、音楽のために旅行に行くなどということはない。

井上 そうなんでしょう。それを原先生も実感しておられたようで、「下村先生の音楽の流れは自然な    んですよね。音楽のためにこうするんだというところがないんですよね!」と言っておられた。

下村 全然ありませんね。

園長 その情感の豊かなところは、ドイツで学ばれたのでは。





 
                                          還暦祝い記念祝賀会
 
                                                




下村 ほとんど毎晩のようにオペラや音楽会を聞きに行きましたから、何が一流でどれが二流なのか、   もう感覚的に分かるようになりましたね。それだけ音楽を聴いたということでしょうね。

園長 そのことが、感性や情感を育ててこられた。日本には日常的にそれがありませんね。

下村 そうかもしれませんね。言葉でどんなに説明しても、音楽として出来上がったものが、そうでな    ければどうしようもない。

井上 原先生が書いてくださったものの中に、「下村先生の音楽の流れが自然で、そして音楽の内容    が深いのです。日本人は自然に動くというのがなかなか大変なのです。」

下村 まさにその通りだと思います。それはドイツに行って学んできたもの、
    それを教えてくれたのがピッツィンガー教授です。

井上 こんなふうに言うこともできますか。下村先生が自然体で生きてきたから、歌も自然なものにな    る。

下村 それもありますが、ドイツで学んできたものが自信になって持続できるから、自然体で歌える     のでしょうね。それが出来るから肩肘張らずに自然体でいられる。

井上、原先生は「光を発する長年のコンサートのキャリヤからくる。」と言っておりました。

下村 それは、自分ではわからない。   
    私が、オーラを発しようと思って発しているわけではない。それは自分にはわからない。

井上 ピッツィンガー教授が「舞台に一歩出たら、洋子そこはあなたの世界だよ。」と言ったことと繋が    ってきますよね。

園長 磨かれてきたものの、総体でしょうね!


井上 結婚される前に、東京を中心にコンサートをしてこられた。

下村 そうですね。指揮者の渡辺睦雄先生・山田和夫氏・秋山和慶氏氏・朝比奈隆先生・若杉弘氏     などの指揮でオペラや第9なんかで歌ってきました。小沢征爾さんの指揮では残念ながら歌っ    たことがありません。

井上 オペラは何を歌われたのですか?

下村 オペラはね、「蝶々婦人」の中のアルトの役だとか、「魔笛」「フィガロの結婚」。
    日本人が作った新作オペラは随分やりました。最後の舞台が日生劇場の新宿文化センターで
    「カーチャカバノバ」というオペラでした。
   
井上 先生にとっては、還暦コンサートはなかなか重い意味があられたのではないですか?

下村 本当の区切りでしたね!
    昔から、私はピッツィンガー教授に憧れてピッツィンガー教授のように、60歳で引退と言ってき    たんですけれども、まあもうちょっと歌えるかなという気持ちになっています。

井上 還暦コンサートを終えて、今後の計画を考えておられますか。

下村 好きなように、何の束縛も受けずに暮らします。






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声楽家 下村洋子先生の歩み
  

還暦祝い記念コンサート 2003年9月15

プラザ・イン・くろかみ