Tristram Shandyの世界ってどんなの?

Tristram Shandy の誕生

 全9巻から成るこの作品の正式なタイトルは、 The Life and Opinions of Tristram Shandy, Gentleman というものものしいものである。当時の小説には長々しい説明的なタイトルが好んで用いられていたことを考えると、これでも簡潔なタイトルのだと言えよう。しかし、このタイトルから一般的に想像し得るような内容は、当然ある人物の年代記という線であろう。ところが、作品を読み始めると、読者はことごとくその先入観もしくは期待を裏切られることになる。

 最も読者が面食らうのは、主人公であるはずの Tristram Shandy 氏が、いつまで経っても生まれて来ないことであろう。一応作品の設定は、主人公となるべき Tristram Shandy 氏が自分の生涯を語り綴るという、自叙伝的形式を取っている。従って、著者はあくまでも Tristram 氏本人なのである。しかし、彼が語り始めるのは、自分がこの世に生まれる前の、つまり母の体内に受胎されるところからである。しかし、ものの10ページも行かないうちに、自分の出生時に立合った産婆にまつわる話や、この産婆の説明に登場する Yorick 牧師なる人物の生涯を語り、肝心の Tristram 自身の人生はなかなか始まらないのである。その後も出産にまつわる様々なエピソードとゴタゴタが書き綴られ(文体的には語り続けると言った方が良いのだが)、ようやく第3巻で Tristram 誕生のエピソードが語られる。作者としての Tristram は "All my heroes are off my hands;---'tis the first time I have had a moment to spare,----and I'll make use of it, and write my preface."( III. 20. 192)と述べて、ここで「序文」を書き始める。しかも、その後も彼の幼年期は時折他の登場人物たちの話題の中で語られるのみであり、主人公らしく活躍するわけではない。

 この Shandy 家には、トルコ貿易に従事し、田舎に隠退して悠々自適の生活を送る父親Walter Shandy と母親の Mrs. Shandy 、イギリス軍の大尉として活躍し、1701年に負傷のため退役してこの Shandy 家に居候している叔父の Toby (Uncle Toby) と彼の部下の Trim 伍長 (Corporal Trim)、そして先ほども触れた Yorick 牧師、近所の未亡人Widow Wadman、さらには産科医師の Dr. Slop や Shandy 家の下僕や女中といった人物が入り乱れ、様々なユーモラスなエピソードが語られ、その間に絶えず作者 Tristram 自身の随想的挿話が入り込んで、集積されて行く。第7巻では突然紳士となった Tristram が大陸旅行をするという、旅行記が挿入され、結局最後の第9巻では叔父の Toby と Wadoman 未亡人との恋愛事件のエピソードが語られて終わってしまうのである。すなわち、この作品では一貫したストーリーというものが初めから無い。表面的には作者(語り手)の Tristram が Shandy 家の人々の、雑多なエピソードを、自分の脳裏に思い付くままに語り綴っている、という印象なのである。これがそれまでの Richardson や Fielding 、Smollet 等の近代小説の典型的な形式と全く異なる点である。

 作品形態としての特異性は、一貫したストーリーの欠如だけではない。Yorick 牧師の死を悼む真っ黒に塗り潰されたページ、

読者の想像のままに描いてほしいと用意された白紙のページ、タイトルだけが記された章、自分の思考を表す marble pages と呼ばれる墨流し絵のようなページ等の、読者をからかうかのような意匠がある。

 

 

 

また、アステリスクやダッシュが多用され、さらに、この作品の話の進行状況を曲線で表す等、まさしく奇抜な形態をほしいままにしている。内容構成の点についても、Sterne は語り手 Tristram にはまともな語り手ではなく道化を思わせるふざけた語り口を使わせ、絶えず話の進行を中断し、他の話題を挿入し、また本筋からの脱線を繰り返し、さらにフラッシュバックのように回想的場面を導入する。こうした手法は、読者の常識的な期待をことごとく突き崩そうと試みているかのように見えるのである。

 

 

このような奇抜な意匠が随所に仕込まれた Tristram Shandy は、出版当時はかなりセンセーショナルであったことは想像に難くない。しかし、この一見雑多な、雑然とした構成の作品が、独特な、一種の計算し尽くされた作品世界を構築しているという点で、200年を経た現在においてもその魅力を失ってはいないのである。では、一体 Sterne はどのような仕掛けと意図をこの作品に仕組んでいるのであろうか。

これらの仕掛けは単に、挿絵的な付録品ではない。この意匠そのものがこの小説の構成要素になっているのである。さらに、本文のなかに多用されるダッシュ、アステリスク、そしてインデックスマークと、従来の小説の表現形態とは全く異質な要素がふんだんに盛り込まれている。こうした意匠は奇抜さを狙った遊びだとして片付けることも出来るが、これまで指摘してきた Sterne の志向性というコンテクストから眺めてみると、やはり同じ発想の意匠であると言えるのではないだろうか。すなわち、小説の宿命として固定化された文字による表現を強いられるのであるが、言語表現による意味の伝達のみならず、動くことの無い印刷された活字とページに、動きと情念を伝えさせる手段として機能していると言える。多用されるダッシュは、語り手 Tristram の微妙な息づかいと語りの間を表現し、アステリスクは「明確に表現しないこと」による効果、つまり読者の想像力を刺激するための表現である。こうした意匠はいわば表現媒体(メディア)を、印刷された文字と表象される言語の意味だけにとどめず、それらと同等な表現媒体としてあらゆる手段を用いるという、広い意味でのこの当時のマルチメディアと呼んでも差し支えないであろう。その意味で、Sterne の試みは時代の先端を行くものであった筈である。言葉と表現のこの溢れんばかりの横溢、言い換えればカーニバルは、恐ろしく雑多(マカロニック)な世界を作り出す。近代文明社会のもとになる「あれかこれか」の整理学の世界ではなく、「あれもこれも」という世界であり、それはヨーロッパルネサンスの豊穣な世界を思わせるものなのである。

 Sterne の試みは恐らく、数学的明晰さと科学的論理性に抑圧される言葉と表現に、本来持っていたはずの言葉の多義性、弾力性、呪術性、といった豊穣さを取り戻す試みであった。17世紀に始まる「言語革命」が、「知的認識」の言語と「詩的情動的」言語との乖離を促したと言われるのだが、言葉と表現にルネサンス的感性を取り戻そうとする、言い換えれば、言葉と表現の「肉体化」がここにある。

 さらにこの視点から作品を見ると、もう一つの特異な要素である「時間」の果たす機能と意味が理解される。多重の時間構造を内包させた Tristram Shandy はこれまで論じた表現形態のマルチメディア化と連動して、さらに革新的な技法を産み出していると考えられる。

 こうしたSterneの技法を支えているものは、もちろん彼特有の人間観である。この作品が単なる実験小説に止まらないのは、背景として人間の思考、心理、に対する彼の洞察が存在する。少なくともここで言えることは、小説を作り上げる技法とその小説世界内部の意味とが幸福にも一体化する時、初めてその作品全体が重要な意味を帯びてくるということであり、ここで論じたものは、Sterne の作り出した世界の一端を解きほぐしたに過ぎない。 しかし、様々な意匠を凝らしたこの作品を、現代社会に生きる私たちが理解するための確実な糸口となるものである。

(「Tristram Shandy における時間とSterne の意匠−−−マルチメディア的小説」神奈川大学経営学部17世紀研究会『麒麟』第5号, 1996年3月 より抜粋)


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岐阜大学 内田 勝 先生による

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このページは神奈川大学経営学部 榎本研究室(榎本 誠 教授)によって作成されています。


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