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       10月定期講演会(平成19年)

  80歳のフリーアナウンサー・ブロガー
      福原榮声氏



       「足し算人生 創める心」


 10月24日(水)午後6時半 民報ロイヤル(福島市)



           74歳でパソコンに挑み、マスターした。75歳でデジカメを駆使、76歳では孫を記録した
       ビデオをDVDにダビング編集した。
77歳には携帯メールを開始、78歳でカセットテープ
       からCDを作った…。ネットで近況を全国発信するブロガーでもある。


       朝起きるとすぐに洗面所の鏡の前に立つ。「本日は晴天なり、本日は晴天なり」。
       何度か言う。声で健康状態を確認する。不調の時は声が曇る。休養、薬など即、対応。
       新聞を見ながら最低
10分は声を出して読む。生涯現役アナのたしなみ、美学でもある。


           瞬時の半生だった。東京の青年教師は昭和28年に開局したラジオ福島の第1期アナウンサー
       として採用された。だが5,6年で営業に回された。ショックだった。さらなる衝撃は
       昭和
38年の福島テレビの開局だった。


       産声を上げ10年、ラジオ福島が順調に走り始めていた。急増のラジオ付の車が後押しした。
       民間放送は県内でラジオ福島だけ。スポンサーが相次いだ。そこに初の民間テレビ。
       スポンサーはあっという間に福島テレビへ。給料は遅配、存亡の危機にー。



           広告料は商品のノリ(海苔)という東京の大スポンサーが現れた。山のようなノリが
       持ち込まれた。生きるために恥も外聞もなかった。暮れなずむネオン街を足を棒にして
       売り歩いた。お通しはどこでもノリ。福島の夜の街の歴史を飾るエピソードである。


           65歳の時、常務・営業局長で退職した。だが不完全燃焼だった。
       夢のアナウンサーに再挑戦した。スポンサー探し、台本書きなど1人7役。
       週1回、
30分の「ふれスタ朝1番」が誕生した。10年間続いた。
       全国のラジオ史にも大きな足跡を残した。



       「孫の結婚式には2人でよばれたいね」。口癖だった愛妻が昨年、永久の旅に立った。
       妻と共有の願い、孫娘の華燭の典は迫った。亡き妻との想いを胸に、新井満氏の詩
       「この街で」を朗読、幸せな旅たちを祈る。        


                     この街で生まれ この街で育ち この街で出会いました…
                     この街で恋し この街で結ばれ この街でお母さんになりました…
                     あなたのすぐ側にいつも私 私のすぐ側にいつもあなた…

                     坂の上に広がる 青い空 白い雲が一つ 浮かんでいる 
                     あの雲を追いかけ 夢を追いかけて
                     喜びも 悲しみも あなたと この街で

                     この街で いつか おばあちゃんに なりたい
                     おじいちゃんに なったあなたと 歩いて 行きたい 
                     いつまでも 好きなあなたと 歩いて 行きたい            (文責・小林富久壽)

             その夜のひとこま