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| 同志社大学
●建学の精神「国際主義とキリスト教主義」
●教育理念「良心教育」
同志社大学の歴史は1875年に新島襄が京都市上京区に同志社英学校を創立したことに始まる。新島は幕府の軍艦操練所でアメリカについて学びキリスト教に興味を持つ。向学心から1864年に国禁を侵して函館から上海経由でアメリカに密航。ボストンでキリスト教の洗礼を受けピューリタンの仲間入りし、多くの援助を受けてアーモスト大学を卒業、アメリカの学位を受けた最初の日本人と言われる。その後、神学校に入学し宣教師としての教育を学んでいた時、明治新政府が派遣した岩倉使節団に参加することになり、通訳として協力しながら欧米各国を歴訪の末、1874年に日本に帰国する。帰国するや西洋の学問を教える英学校の設立を大阪府に申し出るが知事の許可が得られず、次いで京都府に申請する。京都府知事は許可を出したものの仏教会の強い反発があり、キリスト教課目・聖書課目を設置しないことが条件となった。そして公卿だった高松保実邸の一部を仮校舎とし、神戸で私塾を開いていた宣教師J.D.デイヴィスの協力を得て1875年に官許同志社英学校を開校する。
新島は官立によらない私立大学の必要性を説き、1888年全国の新聞や雑誌に「同志社大学設立の旨意」を公表するが、新島はこの2年後に永眠する。同志社大学が誕生するのは、1918年の大学令公布を受けて1920年のこと、新島が没した30年後のことである。初代学長に就任したのは、アメリカ・イェール大学大学院を卒業の後、セーヤー大学教授を経て来日し、同志社創立に向けて新島を助けたD・W・ラーネッドである。
「同志社」という名称は「志を同じくする個人の約束による結社」という意味であり、賛同する民間人の集まりによって結成された「自発的結社」としての理念を示したもの。
教育理念の「良心教育」は、新島の「良心の全身に充満したる丈夫(ますらお)の起り来(きた)らん事を」 という言葉による。
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| 立命館大学
●建学の精神「自由と清新」
●教育理念「平和と民主主義」
立命館大学の歴史は第12代・第14代の総理大臣・西園寺公望の秘書官であった中川小十郎が1900年に京都法政学校を創立したことに始まる。中川は東京帝国大学卒業後文部省に入省し、伊藤博文内閣で文部大臣となった西園寺公望の秘書官となり、京都帝国大学の初代事務局長や日本女子大学創立事務幹事長に就任するなど、西園寺とともに日本の高等教育事業に取り組んだ。中川は官職を退職した後、加島屋(現:大同生命)の再興や真宗生命保険(現:朝日生命保険)の筆頭取締役などを務めていたが、1900年に京都・鴨川の料亭「清輝楼」において、勤労青年を対象に京都帝国大学の教授が政治学や経済学の講義を行う夜学として京都法政学校を開校する。この学校が1904年に旧制専門学校である京都法政大学となる。
「立命館」という名称は、そもそも1864年に西園寺が「大いに勤王家を養成する」という発想で開いた私塾に、中国の古典、孟子の「盡心章(じんしんしょう)」を出典としてつけられた名前である。この私塾「立命館」は一般の多くの学生を受け入れたが、内外の時事問題を議論する性格が不穏と受け取られ、京都府庁の太政官留守官の命令によりわずか1年で閉鎖されてしまう。1913年に中川は西園寺からこの「立命館」の名称を引き継ぐことの許可を得て、京都法政大学を「立命館大学」と改称。1918年の大学令の公布を受けて1922年に旧制大学となる。
初代学長を務めたのは、京都法政学校の校長だった富井政章。東京帝国大学法学部の元教授で、日本の民法を起草した一人である。
建学の精神は、西園寺の「自由主義と国際主義」という思想を継承するものであり、教学理念である「平和と民主主義」は第二次世界大戦の反省から定められたものである。
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| 龍谷大学
●建学の精神「浄土真宗の教え(平等・自立・内省・感謝・平和)」
●教育の目的「真実を求め、真実に生き、真実を顕かにする」
龍谷大学の歴史は1639年に開設された西本願寺の「学寮」に始まる。「西本願寺」というのは通称であって正式には「本願寺」と言い、浄土真宗の開祖・親鸞の入滅から10年後である1272年に親鸞の末娘・覚信尼が親鸞の影像を安置した大谷廟堂が起源とされる。本願寺は「講」を行うことで全国に信者を増やし、一向一揆や織田信長の軍と戦うなど戦国時代には大きな力を持った。本願寺は歴史に翻弄されながらその寺籍を転々とさせたが、1591年に豊臣秀吉が寺地を寄進したことで京都で再興、1602年には徳川家康が本願寺の東側に寺地を寄進したことで二つに分かれ、本来の本願寺を「西本願寺」、東側の寺地にできた現在の真宗本廟を「東本願寺」と呼ぶようになる。この西本願寺の学寮が学林、大教校、大学林と名称を変えながら1905年には専門学校令による旧制専門学校として仏教大学、そして1918年の大学令公布を受け1922年に旧制大学となるとともに、西本願寺の山号が「龍谷山」であることから名称を「龍谷大学」と改称する。龍谷大学の歴史はまさに日本史の一部である。尚、東本願寺の学寮は現在の大谷大学である。
初代学長は、浄土真宗の最高学階「勧学」の学位である鈴木法_(すずき ほうちん)。建学の精神は浄土真宗の教えであり、もっとも京都らしい大学と言えるだろう。
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| 京都産業大学
●建学の精神「大学の使命は、将来の社会を担って立つ人材の育成」
●教学の理念「自らを厳しく律しつつ、創造性に富み、社会的な義務を怠らずに、国際社会で活躍できる人材の育成」
京都産業大学は他の新制大学とは異なり、戦前からの法人が存在してない状態から創り上げた大学である。この大学の創立については清水一行の「虚構大学」という小説のモデルになっている。
京都産業大学設立の構想は、戦後GHQによって解体された官立神宮皇學館大学(現:私立皇學館大学)の再興期成会で起こったものらしい。この大学の設立構想の根底にあるのは「憂国」である。高度経済成長期に安保闘争や日本全国で労働紛争が吹き荒れ、教職員組合もその例外ではなかった。そんな日本の行く末を憂い、日本を担う憂国の青年指導者の育成を目的に構想されたものだ。この構想の実現に向けて動いたのは、皇學館大学助教授の船越正道と、後に京都産業大学世界問題研究所の初代所長に就任する岩畔豪雄。岩畔は第二次大戦中、インド独立工作を行っていた元帝国陸軍大佐である。それに協力したのが鳥取県倉吉市で私立高校を経営する学校法人の小野良介で、大学設立に向けた決起集会は京都ではなく倉吉市で開催されている。
設置場所に当初予定されたのは京都府福知山市であったが、土地取引のトラブルから福知山での構想は白紙になり、京都市北区の国有林だった現在の場所に変更され1965年に開学。
初代学長には当初、京都大学法学部長の大石義雄が就任する予定であったが、大学の開設時期が大石の定年より1年早くなったために、白羽の矢が立ったのが荒木俊馬である。荒木は京都帝国大学で宇宙物理学を専攻していた天文学者で、京都帝国大学教授時代に大日本言論報国会の理事をやっていたため終戦後に公職追放を受け、追放解除のあと大谷大学で教授をやっていた人物。建学の精神は荒木の「最高学府は、社会を支える人材育成の産業(むすびわざ)であるべき」という理念に基づく。
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| 関西大学
●建学の精神「正義を権力から護れ」
●学是「学の実化(がくのじつげ)」
関西大学の歴史は1886年に大阪市西区の願宗寺に開設された関西法律学校に始まる。東京にあった明治義塾法律学校の吉田一士、大阪始審裁判所判事の鶴見守義、大阪控訴院検事の小倉久、この三人が中心になり大阪控訴裁判所長の児島惟謙の支援を受けて開設されたものである。関西法律学校の創立者としては、吉田、鶴見、小倉の三人の他に、井上操、堀田正忠、志方鍛、手塚太郎、野村ちん吉という当時の大阪にいた司法関係者が名を連ねる。関西法律学校の創立を支援した児島惟謙は後に大審院長となり、滋賀県の巡査・津田三蔵がロシアの皇太子ニコライを斬りつけた「大津事件」での裁判にあたり、近代国家となって間もない日本と大国ロシアとの関係悪化の懸念から死刑判決の圧力がかかる中、法定の範囲内で無期懲役判決を言い渡し、日本の司法の独立を護り日本が近代法治国家であることを世に知らしめたとされる人物。この児島の影響から「正義を権力から護れ」を建学の精神としている。
関西法律学校は1918年の大学令公布を受けて1922年に旧制大学である関西大学となる。学長に就任したのは、大阪商船(現:商船三井)、大阪鉄工所(現:日立造船)や日本電力(日本発送電を経て電力会社9社に分割)の社長を務め、大阪商工会議所の会頭だった山岡順太郎である。実業界から大学の学長に就任した山岡の学問の実質的価値を説いた言葉から「学の実化」を学是としている。
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| 近畿大学
●建学の目的「人に愛され、信頼され、尊敬される人の育成」
近畿大学の歴史は1925年に日本大学(東京都千代田区)が中河内郡小若江村(現:大阪府東大阪市)に設置した日本大学大阪専門学校に始まる。この専門学校が経営危機に陥り、これを立て直すべく校長に就任したのが小野村胤敏である。小野村は関西大学専門部を卒業し日本大学に進学、弁護士資格を取って大阪で弁護士をやっていたところ、日本大学大阪専門学校の校長に推挙され同校の再建に尽力する。この専門学校は再建の後、1939年に日本大学から分離、大阪専門学院そして1943年には大阪理工科大学(旧制専門学校)と名前を変え小野村が学長に就任する。しかし大阪理工科大学設立に絡む騒動が勃発し、責任を取って小野村は学長を辞任、小野村に代わって1944年に学長に就任したのが衆議院議員の世耕弘一である。
世耕は日本大学法学部卒業後、日本大学の教授になり、1932年から23年間衆議院議員を務め、第二次岸信介内閣では経済企画庁長官に任官されている。1947年には日銀地下金庫に保管されていたダイヤモンドの横領密売事件を摘発し、その采配から「世耕機関」と恐れられた人物である。
戦後の学制改革に伴い1949年に旧制専門学校の大阪理工科大学が新制大学となり近畿大学が誕生、初代総長には世耕が就任する。建学の目的は世耕の人間育成の理念に基づく。
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| 関西学院大学
●建学の精神「キリスト教主義教育」
●スクールモットー「Mastery for Service」
関西学院大学の歴史は外国人居留地があった神戸から始まる。1889年、医師で宣教師だったアメリカ・南メソジスト監督教会のW.R.ランバスが、伝道師の育成とキリスト教主義に基づいた青年教育のために、菟原郡原田村(現:神戸市灘区)の地に開設したプロテスタントの私塾である。「メソジスト」というのは、イギリスで興った英国国教会に対立する信仰覚醒運動に始まり、後にアメリカに渡ってプロテスタントの発展に大きく係った宗派。この宗派の中心である米国メソジスト監督教会が南北戦争で分裂し、関西学院は米国南監督教会の流れを汲み、北部監督教会の流れを汲むのが東京の青山学院である。1910年にはカナダ・メソジスト教会の経営参画を得て学校としての基礎を固め、1929年に阪急電鉄の創業者・小林一三の斡旋により現在の上ヶ原キャンパスである武庫郡甲東村(現:兵庫県西宮市)に移転。1932年に旧制大学である関西学院大学となる。
初代学長に就任したのは、カナダ・メソジスト教会の宣教師であるC・J・L・ベーツ。スクールモットーの「Mastery for Service」は、このベーツの言葉による。これは「奉仕のための練達」と訳され、「社会貢献のためにこそ実力を身につけよ」ということを意味する。
「関西学院」は「カンセイガクイン」と読む。「カンサイ」ではなく「カンセイ」と読むのは、命名当時に若者の間で東京を「トウケイ」と読むような漢音での読み方が流行し、同様に関西を「クヮンセイ」と読んだ。それが現在まで継承されたものである。
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| 甲南大学
●建学の精神「人格の修養と健康の増進を重んじ、個性を尊重して各人の天賦の特性を伸張させる」
●教育理念「世界に通用する紳士たれ」
甲南大学の歴史は1919年に平生釟三郎が旧制中学校を開設したことに始まる。平生は東京外国語学校(現:東京外国語大学)に入学、同校所属高等商業学校(現:一橋大学)を卒業の後、兵庫県立神戸商業学校(現:兵庫県立神戸商業高等学校)などで教鞭をとっていたが、1894年に東京海上保険(現:東京海上日動火災保険)に入社し大阪・神戸の両支店長を兼任する。1911年に武庫郡住吉村(現:神戸市東灘区)の実業家たちが子弟教育のために幼稚園と小学校の運営をはじめるがたちまち財政難に陥り、これを平生が高等商業学校時代の学友である日立製作所の基礎となった日立銅山の創業者・久原房之助、大阪ロータリークラブの創設者・進藤嘉三郎らとともに援助し軌道に乗せたことを皮切りに、1919年には伊藤忠商事や丸紅の創業者・伊藤忠兵衛、安宅産業(後に伊藤忠と合併)の創業者・安宅弥吉らとともに、甲南中学校を創立し甲南学園の基礎を築いた。この甲南中学校は1923年に高等科を加え七年制旧制高校に発展する。現在は別法人であるが甲南女子大学や甲南病院の創設にも平生が係わっている。
平生は企業経営の手腕も買われ、甲南学園の校長をやりながら川崎造船所(現:川崎重工)の社長に就任し再建、また日本製鉄(現:新日本製鐵)の社長として経営を合理化し戦時下での鉄の供給体制を作り上げ、大日本産業報国会の会長にも就任している。1936年には勅命により貴族院議員になり文部大臣に就任。1942年に勲一等旭日大綬章を受章した産官学に通じる大物である。残念なのは甲南大学の構想を打ち出しながら、実現を前に1945年に永眠している。甲南大学の建学の精神は、この平生の教育理念に基づくものである。 平生亡き後、1951年の甲南大学開設にあたり初代学長に就任したのは京都大学理学部教授の荒勝文策。物理学の権威で日本の原爆研究の第一人者であり、アメリカが広島に投下した新型爆弾を検証し原子爆弾と判定した人物である。
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| 神戸学院大学
●建学の精神「真理愛好・個性尊重」
●教育目標「自主的で個性豊かな良識のある社会人の育成」
神戸学院大学の歴史は1912年に森わさが神戸市兵庫区に開いた裁縫学校に始まる。この裁縫学校が1923年には高等女学校に発展、戦後の学制改革で新制の女子高校となり、1952年には女子短期大学を設立する。
この女子教育に専念していた神戸森学園(現:神戸学院)が総合大学を設立する要因になったのは、森わさの長男・茂樹の存在である。森茂樹は京都帝国大学医学部を卒業後、同医学部の教授となり、病理学の権威で体質医学の第一人者であった。1957年に戦後の学制改革で医学専門学校から新制大学となった山口県立医科大学の学長に就任する。医科大学学長として7年間務め新制大学としての体裁を整えることに尽力したが、1964年山口県立医科大学は山口大学医学部として国立大学に移管されてしまう。茂樹は医科大学の国立移管を見届け退官すると故郷の神戸に戻り、この経験から「国立大学にないユニークな総合大学を創る」「後世に残る大学を創る」という二つの目標を掲げて神戸学院大学の設立に着手する。
この大学設立構想に参集したのが、神戸大学法学部教授の尾上正男(国際政治学)、同じく俵静夫(行政法)、神戸大学経済学部教授の北野熊喜男(社会経済学)、同じく坂本弥三郎(近代経済学)、大阪大学法学部教授の石本雅男(民法)、京都大学法学部教授で後に最高裁判事となる大隅健一郎、商法企業法論を確立した大阪市立大学法学部教授の西原寛一、血液研究の第一人者である慶応義塾大学の岡本歌子など、各学問分野で権威と呼ばれてる人たちである。茂樹を含め、神戸大学・大阪大学・京都大学といった国立大学の教授陣を始めとする錚々たる学者たちが集い、「国立にはないユニークな大学」を目標にして、私立大学を立ち上げたというのがこの大学の面白いところ。そして茂樹を学長として1966年に開学する。
建学の精神である「真理愛好・個性尊重」は、茂樹の学者であり研究者としての理念と、「学生諸君一人ひとりの体質的・気質的特質を尊重する」という教育者としての理念に基づく。
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