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6月30日 確率微分方程式 |
最近はこれを勉強しています。おおざっぱに言うと、運動方程式の外力のところに確率で値が決まるランダム力をぶちこんで、それを解くわけです。
決定論的方程式に慣れすぎていて、物理に確率を持ちこむなんて邪道(量子力学の確率解釈は別問題)だと思ってたけど、なんとこの確率を入れた方程式からある種の拡散型方程式、例えば熱方程式なんかは導き出せちゃうんですね。要するに、確率でしか分からない方程式のほうが値がビシッと決まる方程式よりも一般性が高い。よくよく考えてみると、温度とか圧力とかいう概念自体、物理系の平均値を考えていることになるんです。つまり巨視的温度というのは分子1つ1つが持つ内部エネルギーの微小体積内の平均値であり、圧力というのは分子1つ1つが隣の微小体積に与える力の平均値なわけです。
つまりこの手の決定論的方程式では物理量の平均値しか求めることができないのです。一方、確率のまま解くと、物理量がこの平均値からどれくらいの確率でどれくらいずれているかまで出せちゃうんです。確率微分方程式の解の平均値をとると決定論的方程式の解になります。また確率微分方程式を解かずに方程式そのものの両辺の平均値をとると決定論的方程式になります。
熱方程式を学んだときは、任意の時刻、任意の位置の温度が計算できるわけですからこれが最強だと思ってましたが、そこに暗黙に含まれている仮定を見抜けずにより一般性の高いモデルを探そうともしなかった自分がちょっと恥ずかしいです。これからはなんでも疑っていこう。隣に座ってる女の子が俺に惚れてるんじゃないかとか疑っていこう。
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6月29日 磯ぴょん |
街中で偏微分方程式の磯先生を見かけたので思い切って声をかけてみました。思い切って、というのは、磯先生はやたら恐いといろんなところで評判だからです。恐いだけでなく・・・おっと余計なことを言うと出世に響く。
僕「磯先生、共立で偏微分方程式の本書いてますよね。」
I 「はいはい。いやあ遅れていて申し訳ない。出版社以外から催促されるとドキッとします。」
普通に言い人でした。授業や学会でもこの人すごくしゃべりがうまいです。でもたぶん、彼の研究室に行くとさんざんいじめられるんだろうな・・・
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6月26日 |
20世紀を代表する大数学者、コルモゴロフの家に遊びに行くという夢を見ました。うちの実家のすぐ近所に住んでいました。子犬が2匹いました。
「あなたの定理は偉大だけど証明はテクニカルで分かりにくいね」
などと恐れ多いことを言ってしまいました。
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6月21日 風になりたい |
今日は台風がきたので、風にのって空を飛ぼうと思い朝早くから学校にいって風が最強になる瞬間を待ち構えていました。
予定では
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航空工学の父、パラソルへんべえ氏 |
のようにふわふわと宙を舞うつもりでしたが、傘を広げた瞬間に布の部分が吹き飛ばされて骨だけになってしまいました。
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6月14日 伊藤清 |
最近岩波書店から復刊された本の中に伊藤清先生の「確率論の基礎」がありました。↓
http://www.iwanami.co.jp/cgi-bin/isearch?isbn=ISBN4-00-005194-6
伊藤先生は確率微分方程式の生みの親であり、伊藤積分、伊藤の公式などにその名を残しておられます。ちょうど今僕が興味を持っている分野だったので少し立ち読みしてみました。
まず前書きを見てびっくり。
「このたび、たまたま機会があって、60年前に著した『確率論の基礎』が、漢字や仮名遣いを現代表記に改めた新版として(以下略) by伊藤清」
まだ生きていた!60年前の本の著者が!現在85歳、京大の名誉教授ということで、ひょっとしたら近くに住んでいるかもしれません。サインほすぃ。しかし60年の時を超えて同じ本の前書き書くってすごいです。まあ俺の本は早くも絶版の危機なわけだが。そう言えば佐藤超関数で有名な佐藤先生やフィールズ賞の広中先生もすぐ近くに住んでいるみたいだし、同じくフィールズ賞の森先生はまだ京大で鞭をとっておられます。サインほすぃ。
確率論の本の話に戻りますが、表紙の裏のところにこんなん書いてありました。
「後半では伊藤積分の導出の過程について(以下略)」
ほう、それは是非読んでおかなければ。と思いパラパラっとページをめくるが・・・
書いてねえよ!伊藤積分どこにも書いてねえよ!つかさあ、伊藤先生が確率微分方程式の理論を発表したのが1944年から50年にかけてだろ?この本出たの1944年だろ?載るわけねえよ!載ってるわけねえよ!!!ぬぉぉおおおお!フリーザぁぁぁぁ!!!!!
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6月10日 |
↓「スルメ」ではなく「ススメ」でした。うっかりしてました。
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6月9日 節約のスルメ |
【レベル1】
・基本的に自炊。1日300円以内。
・移動手段はチャリのみ。
・携帯は受け専用。
・試供品をもらいまくる。
【レベル2】
・日用品は学校等の公共機関から(無許可で)もらってくる。
・サランラップ、アルミホイル等は何回も使い回す。
・髪は自分で切る。
・ベランダでかいわれを育てる。
【レベル3】
・うんこは外でする(水の節約)
・口を拭いたティッシュで鼻をかみ、うんこを拭く。
・うんこはもったいないから食べる、とみせかけて病気になると治療費がかかるから食べない。
・うんこネタが多い。
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6月5日 |
家でご飯作った直後に台所でゴキブリが2匹出現。
こんなメシ食えるか!
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6月2日 トウサン カアサン サヨオナラ |
4月にあった健康診断の結果がでました。
X線検査の結果: 肺の石灰化
徐々に石化して朽ちていくのか。それもまた趣深し。でも酸性雨に当たって炭酸ジュースになっちゃうのは勘弁な。
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5月30日 なんだこりゃ |
1人で酒飲むと決まって変な日記を書く。
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5月29日 数学の勉強法 |
・準備
1.食料と水分を用意してください。最低20時間、トイレ以外で机を離れてはいけません。
2.えっちぃ想像をしてください。計算は2の次3の次、数学はイマジネーションです。
3.友人・彼女(彼氏)に別れを告げてください。足手まといです。
4.服を全部脱いでください。知識の吸収が良くなります。
・前半戦
5.2時間くらい問題をじっと見つめましょう。考えてはいけません。見るだけです。
6.問題を図で表しましょう。問題の輪郭を目と手で感じてください。
7.服を着てください。風邪をひきます。
・中盤戦
8.使えそうな定理を列挙してください。
9.頭の中のイメージを数式に翻訳してください。↑で書いた定理との相関関係をフローチャートにしましょう。
10.パンツだけ脱いでください。意味はありません。数学に意味なんてないのです。
・終盤戦
11.本格的に解きはじめましょう。抽象的な議論をするときも、具体例で確認することを忘れないでください。
12.分からないことがあったら2chで質問しましょう。罵倒されるので逆に意欲が沸いてきます。
13.たまには実家の母に連絡しましょう。
14.眠くなったら血がでるまで壁を殴ってください。血はもったいないのでなめてください。
・後片付け
15.出たアイデアをまとめて書きとめておきましょう。99%は一生役に立ちません。
16.彼女に「ごめん」ってメール送っときましょう。友人は放っておきましょう。
17.余計なことをせずにすぐ寝てください。必ず数学の夢を見れます。
18.4時間寝たら1に戻りましょう。そのうち問題は解けます。1年経っても解けなかったら気分転換してください。
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5月23日 最近のこと |
20日:数学の授業で、「今まで習ったことをまとめてこい」というレポートが出ました。どこまで要求してるのか分からんけど、教科書級のを書けば文句あるまい。
21日:昼飯にバナナ食ってたら前に座ってる奴がまるごとバナナ食ってました。金持ちのやることは違います。
22日:大学でソフトボール大会がありました。うちの研究室で参加したのですが、言うまでもなくボコボコにやられました。いい汗かいた後、みんなで大学内にあるカフェレストランにビールを飲みに行きました。前々から悪い噂しか聞かない店でしたが、ビールより先に食事がでるという失態を許すことができませんでした。
23日:お風呂からあがった直後にうんこするとちょっと損した気分になります。
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5月15日 自然と自然科学と数学・最終回 |
これまでの話を簡単にまとめておくと・・・ある物理の分野においてその土台となる数学として様々な理論を選ぶことができ、その組み合わせには相性の良い、悪いが有り得る。量子力学では非常に抽象的な数学を用いており、うまくいっていない部分が多いので相性が良いとは思えない。しかし自然を抽象的なモノで捉えることは、自然の本質をうまく突いているようにも思える・・・ということであった。
少し難しい例を挙げながら説明してきたが、どんなに物理学が発展しても自然を完全に理解することが不可能であることは明らかである。なぜならば人間が自然を理解しようとするとき、必ず自然は人間というフィルターを通ってしまうからである。その極端な例が古典力学であり、自然は古典力学のフィルターを通ることにより数字というものに変貌してから人間の頭の中に入っていく。一方、量子力学では状態ベクトルなるものに変貌してから人間に理解される。これは数字よりは自然に近いものではないか、と前回述べたのであった。
人間というフィルターを通るときにどうしても自然はある程度壊れてしまう。物理学ができることは、自然を完全に理解することでなくできるだけ自然を壊さぬように人間に理解できる形にすることである。そしてその壊れ具合は、土台として用いる数学の理論に大きく依存するのである。自然をより深く理解するために、我々は既存の数学の理論を発達させるばかりでなく、まったく新しい数学の分野を開拓しなければならない。
結論:数学は大事!
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5月14日 自然と自然科学と数学7 |
量子力学では抽象的な状態ベクトルなるものを用いるわけだが、数学が得意な人は次のように思うかもしれない。「いかに抽象的なベクトルを扱おうとも、それは数ベクトルと同型になるのでは?」と。その通り、実際に状態ベクトルを用いて物体の位置などを計算するときは、状態ベクトルは関数か、あるいは高校のときに習った普通の数の並びのベクトル(これを数ベクトルという)の形に変容する。なんだ、わけの分からないモノだと強調しておきながら、結局は普通の数字のベクトルじゃないか、と思われるだろうが、それはちょっと違う。古典力学では位置や速度は数字でなければならないのに対し、状態ベクトルは数字にもなれるというだけで常に数字である必要ない。基本はわけの分からないモノであるが、それは見る方向によっていろんな姿に変身する。その中で、人間にとってもっとも理解しやすい方向から見ると数字に見えるのだ。実際に計算を行うときはこの方向から見るが、そうでないときはわけの分からない状態のまま放っておいてよい。
同型という言葉を使ったのでこれについて簡単な説明を加えておこう。
1番から10番までの番号がついたイスがあり、10人の人がそれぞれに座っている。例えばA君を呼び出したいとき、彼の名前を呼ぶ代わりに「3番の人来てください」といった具合に彼が座っているイスの番号を呼んでもよい。これは、イスの集合と人の集合が1対1の対応関係を持っているからである。これが、「2つの集合が同型である」ことの1つ目の条件である(難しい言葉を使えば、一方の集合からもう一方の集合への全単射写像が存在する)。イスの例でさらに、10人の人が背の低い順に1番のイスから座っていたとしよう。つまり、イスの番号が増えるほどそれに座っている人の背が高くなる。ここで、「2+3=?」という問題が小学生に出されたとしよう。計算が苦手な生徒でも、このイスの例を用いて答えを出すことができる。すなわち、2番のイスに座っている人の次の次の次に背の高い人を探し出し、その人が座っているイスの番号を答えればよいのだ(イスが順番通り横一列に並んでいると3つ横のイスの番号を答えればよいだけなので、イスは部屋にバラバラに置かれているところを想像して欲しい)。これは何を意味するかというと、イスの番号の計算と、人の身長の順番の計算がうまく対応しているのである。我々は、どちらか一方、分かりやすい方で計算することでもう一方における答えを求めることができるのだ。簡単すぎる例なのでピンとこないかもしれないが、とにかく同型とは次のような概念である。
「2つの集合に属する物同士が1対1に対応しており、さらにそれぞれの集合に備わったプラスαの性質もうまく対応する」
“性質が対応する”というあいまいなところはもちろん正確に定義することはできるが、数学の講義をするのが目的ではないから感覚で理解しておけばよいだろう。イスの例の場合では、プラスαの性質とは数字の大きさの順番のことであった。イスの番号の小さい順に身長の数字が小さい方から対応していたのだ。プラスαの性質がどういった性質かは扱っている問題によって異なるのだが、実はプラスαの性質として何をとるかによって数学がいろいろな分野に分かれると言ってもよい。
ある2つの集合が同型であるとき、それら2つは単に名前のつけ方が違うだけで実はその正体は同じものだと思ってよい。これら2つの集合が持つ性質がまったく同じなのであるから、区別する必要がないのである。同じ集合を異なる角度から見ていただけなのだ。
数学では、ある抽象的なモノの集合が実は何か数字の類のものと同型である、ということがしばしば起こる。これは「○○(抽象的なモノ)は××(数字の類)で表現できる」という言い方をすることもある。量子力学の場合では、「抽象的な状態ベクトルは数ベクトルで表現できる」ということだ。抽象的な状態ベクトルはわけの分からないモノのままでいることができるが、必要とあらばいつでも数ベクトルに変身できる。これら2つは正体は同じものなのである。数学における似たような例として次のようなものがある(主題とは関係ないので分からなくても気にしないでよい)。
・ベクトル空間上の任意の線形写像は行列(数字が縦と横に並んだもの)で表現できる
・任意の有限群は置換群(数字の入れ換えの操作)で表現できる(ケーリーの表現定理)
・ヒルベルト空間上の任意の有界線形作用素は内積(数字の演算)で表現できる(リースの表現定理)
・任意の可換C*代数上の元はあるコンパクトハウスドルフ空間上の連続関数で表現できる(ゲリファントの表現定理)
とにかく数学のいろんな場面(全てではないが、きれいな性質を持った重要な数学的対象はたいてい)において、抽象的なモノが実は見方を変えれば数字になる、ということだ。これは驚くべきことである。人間が創造したありとあらゆる抽象概念の中で、数字というものだけがその中に埋もれてしまわずに輝きを放っている。数学の歴史を振り返ってみると、次々とより高みを目指して数という概念が拡張、抽象化されていく。複素数までたどり着くと、次は関数、ベクトル、行列、群、作用素というふうに数の世界からどんどん離れてより高度な概念が生み出されていくようになる。そのような抽象概念の発展は数学の発展そのものである。しかし、どんなに抽象的なモノが生み出されていっても、それは数というものに帰着されてしまうのだ。
あえて宗教的な言い方をすれば、自然数とは神が作りしアダムである。それ以外のありとあらゆる抽象概念は、自然数を模倣して人間が作り出したものである。しかし自然数の存在だけは誰にも証明することができない。誰に教わるわけでもなく、赤子は指を1,2・・・と数え始めるだろう(もちろん言葉こそ違うだろうが)。そう思うと、数というものが抽象概念の中で特別な地位を得ているのも当然なのかもしれない。
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5月13日 自然と自然科学と数学6 |
さて、いかに量子力学が抽象的なモノを扱うといっても、量子力学が物理として広く受け入れられ、工学に応用され実際に科学技術の発達に寄与しているからには最終的に数字を扱うことになる。それは次のような手順による。
まず、シュレディンガーの方程式を解くことにより状態ベクトルと呼ばれるモノが定まる。このベクトルが高校で習うような数の並びとは限らず、もっと極度に抽象的なモノであることは前に注意した通りである。そしてもし必要であれば。この状態ベクトルに対してある計算規則を施すことにより物体の位置や速度やエネルギーなどの具体的な値を求めることができる。状態ベクトルなるものが物体が持つ情報を全て含んでいるのである。
古典力学では自然現象から直接、位置や速度の値を引き出す。しかしこれらの値は自然が本来備えているものではなく、人間が自然を理解するために便宜上導入した概念であることはすでに述べた。一方量子力学では直接位置や速度の値を求めず、いったん状態ベクトルを求めておく。そして、必要であればそこから位置や速度の具体的な値を求めることが出来るようにしておくのである。もちろん状態ベクトルも人間が便宜導入した概念ではあるが、まだ具体的な値を持っておらず、しかも位置や速度やエネルギーといった個別の値をすべてその中に含有しているという意味では比較的自然に近いものと言える。
この物体の状態はどのようであるか、と問われたとき、古典力学では位置や速度といった物理量の値を逐一列挙せざるを得ないのに対し、量子力学では単に状態ベクトルただ1つを示すだけでよい。これは、前に挙げた○○町の例で「地図を指刺す方法」に良く似ていると思うのは私だけであろうか。ひとたび○○町の場所が分かれば、西へ何kmとかどこの駅で降りるとがいった説明法は後からいかようにも考え得る。これは必要に応じて状態ベクトルから位置や速度を個別に求めることに対応する。
ここまで来ると、自然を表現するために量子力学が抽象的な状態ベクトルなるモノを扱うことは古典力学よりもずっと“自然”なことのように思えてくる。
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5月12日 自然と自然科学と数学5 |
量子力学が初学者にとって受け入れ難くプロの間でも論争がやまないのは、このように現象を数字でない何かぼやけたモノで捉えようとすることが原因の1つである。
「自然現象を捉えるのに、数字を用いてそれが持つ情報を表現する」
これが自然科学の基本的な精神であったし、科学でなくとも日常からやっていることである。この物体の大きさは何cm だとか、この部屋に何人いるとか、今日は何月何日だとか・・・そういった作業に慣れすぎていて、それ以外のもので物事の正確な情報を得ようとすることに抵抗を覚える。
物理にはたくさん単位があるが、日常ではそれよりはるかに多くの単位を使いこなして、自然が持つ情報を数字として表している。例えば1本の鉛筆があったとき、この鉛筆の長さは何cmで、重さは何kgで・・・といった具合に、いろいろな単位を使って鉛筆という自然現象からいろいろな情報を得ているのである。この鉛筆について満足するほどたくさんの情報が得られたとき、この鉛筆のことをよく理解した、この鉛筆の状態が分かった、と言うだろう。しかしちょっと考えて欲しい。人間とは無関係に存在している鉛筆が、長さだとか重さだとかいった値をそれ自身区別して持っているのであろうか。
鉛筆は、ただそこにあるだけである。人間がいてもいなくても、ただある状態でそこにあるだけである。鉛筆に限らず、自然とはそういうものだ。
例えば鉛筆の長さが10cmであったとすると、これは0.1mと言ってもよい。この2つは単位が違う、別のものである。しかし当の鉛筆はもちろん単位を変えたからといって変化しない。そういった人間が勝手に名付けた値とは無関係に存在しているのである。ちょっと分かりにくいから別の例を挙げよう。
○○町はどこですか?と尋ねられたとしよう。いろんな答えかたがある。西へ何kmとか、西へ歩いて何分だとか、電車で○○駅で降りるとか、緯度と経度がそれぞれ何度だとか。しかし○○町は、人間のそういったいろいろな解釈とは無関係にそこに存在している。もし手元に地図があれば、指をさして「ここ」と答えるのが手っ取り早い。この答え方が、○○町という自然をもっともうまく表現できているのではなかろうか?自然から数字を抜き出すのは人間が理解するための便宜上のものであって、自然はもともとそのような数字など持っていない。単位を変えると数字が変わってしまうのは、それが人間の産物であり自然が最初から備えている値ではないからであろう。
人間の解釈が入る前の自然は、ただある状態でそこにある、としか言いようがない。自然は数字など持っていないのである。こう考えると、数字で物理量を表現する古典力学よりも抽象的なモノで表現する量子力学の方が案外うまく自然の本質を突いていると思えてこないだろうか?
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5月11日 自然と自然科学と数学4 |
量子力学とか関数解析についてよく知らない人にとってはいまいちピンとこないであろうから、これらについて簡単に説明しておこう。
先に量子力学以前の力学(以下、古典力学)について述べる。古典力学の目標は、ある力を受けて運動する物体の各々の時刻における位置や速度を計算することである。ある瞬間における物体の位置 x は、適当に原点を決めておけば、x軸の正方向に5 とか、東に10m といった形で表されるだろう。時間が経てばこれらの値は変化するだろうから、物体の位置は時間 t の関数として x(t) と書けることになる。もし 時刻 t= 2 における物体の位置を出したければ x(t) に t= 2 を代入することで具体的な数字を得る。速度は位置を微分したものとして定義されている。逆に速度が分かっていればそれを積分することにより位置を得る。そういうわけで古典力学には微分積分学がつきまとうのである。時間を指定すれば物体の位置や速度が具体的な数字として得られる。これは当たり前のように思えるが、実は量子力学ではそうではないのである。
そもそも量子力学がなぜ必要になったかというと、電子の運動のようなミクロの物体に対しては古典力学の法則が成り立たないことが分かったからである。そこでミクロの物体にも通用するような法則を作ろう、ということになるだろう。ところが実験結果と合うような法則を作ろうと物理学者たちが頑張った結果、なんだか妙な法則ができてしまった。
古典力学における議論の出発点(公理)はニュートンの3法則である。これは、物体の運動は運動方程式に従うとか、作用反作用の法則とかで、その物理的意味は比較的分かりやすい。一方、量子力学にもいくつかの公理がある。そのうちの2つを挙げてみると
・量子系の状態は複素ヒルベルト空間H上の単位ベクトルで表現される。これを状態ベクトルという。
・物理量はH上の自己共役作用素として表現される。
なんだかよく分からないだろう。物理だと言われて聞かなければとても物理の話だとは思えない。いくつかの関数解析の用語が使われているがこれはひどく難しいので気にしないことにして、最小限のことを大雑把に述べよう。
まず、状態はベクトルだ、といっている。では物理系の状態とは何のことかというと、古典力学ではある時刻における位置が○○で、速度が××で、エネルギーが♪♪で・・・といった具合に今注目している物体についての必要なデータを全て集めたものを、その時刻における物体の状態、と言ってよいだろう。これらは当然、位置は x = 5 とかいった数字である。ところが量子力学では、状態はベクトルだ、と言っている。しかも、ベクトルといっても高校で習ったような(x,y,z)のような数字の組みである必要はない。一般に、数字とは限らないような何かモノの集合に対して足し算やスカラー倍といった演算の規則を導入すれば、それはベクトルと呼ばれる。数字じゃないものに対してどうやって演算を考えるのかは、数学の美しい世界へで公開している群論のテキストの最初の3,4ページを読めば分かるだろう。
数学が苦手な人にとってはちょっと難しかったと思うが、とにかく状態というものが何か分からないぼやけたモノで定義されている、ということだけつかんでもらえればよい。
次に2つ目に移るが、物理量とは位置とか速度とかのことである。それが自己共役作用素というなんだか恐ろしげなもので定義されているわけだ。こいつの定義は難しいのでここでは述べないが、とりあえず数字ではなく、状況に応じていろいろな形態を取りうるモノ、とでも思っておいて欲しい。実は、このいろいろな形態をとる、という性質により、シュレディンガーとハイゼンベルグの方程式のように見かけはまったく違うのに同じ結果を与える、ということが起こり得るのである。
量子力学について簡単に説明すると言っておきながら余計わけ分からなくなってしまったが、プロの物理学者でもよく理解しているのかどうか怪しいもんであるからあまり気にしないでよい。ここで注目して欲しいのは、古典力学では位置や速度が数字で与えられ、量子力学では数字ではない変なモノによって表される、ということだけである。よく分からない公理から出発してよく分からない結論を得てよく分からない困難にぶち当たっている・・・それが今の量子力学である。
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5月10日 自然と自然科学と数学3 |
物理を記述するのにいくつかの数学的形式が有り得ると述べた。では物理学のある分野が生まれたとき、そこで用いられる数学の分野はどのようにして選択されるのだろうか。
力学の場合を見てみよう。力学と微分積分学は比較的相性が良いと言ったがそれは当然で、2人は兄弟、共に生みの親はニュートンなのである。彼は運動の法則をうまく記述するための道具として微分積分学を編み出したのだ。その後、両者は互いに助け合いながら成長して行く。流体力学がベクトル解析を、解析力学が変分原理や力学系理論の発展の契機を与え、そうして発展した数学は物理現象の理解の助けとなる。
量子力学はどうだろう。ごく大雑把に述べると、量子力学は1900年にプランクにより生み出され、しばらくはうまくいったりいかなかったりする時期が続いたが、1925年にハイゼンベルグとシュレディンガーがそれぞれ独立に量子の世界における現象を記述する方程式を発見する。面白いのは、独立に発見された2つの方程式は数学的形式がまったく異なるのに、計算してみるとまったく同じ結果を与えるということである。シュレディンガーのほうは従来通り微分積分学を用いていたが、ハイゼンベルグの方は行列という理論を用いていた。これは数学の世界ではすでにある程度発達していた分野であったが、ハイゼンベルグはそれを知らなかったらしい。彼の師匠も「これ、学生のときに習った気がするなあ」と思ったらしいから、物理の世界ではほとんど広まっていなかったようだ(力学でヤコビ行列とか使ってたはずだからちょっと不思議ではあるが)。
さて、形式がまったく異なる2つの方程式が同じ結果を与える理由はしばらく難題であったが、両者を包括するような新しい数学、関数解析の登場により解決を見たのである。これに味をしめた量子力学は以後、関数解析の理論に頼って発達していき、逆に量子力学は関数解析の発達を促した。ちなみに関数解析は1900年の直前に誕生している。同じ頃に生まれた数学と物理が数十年後に出会って、手を取り合って成長していくのである。
歴史の話が長くなってしまったが、要するに同じ自然現象を表すのに複数の数学が有り得るが、実際に物理が選んだ数学は、“たまたま”そのとき近くにいた数学だということだ。赤ん坊だった量子力学の近くにいたのが関数解析ではなく別の数学だったら、今とは別の量子力学ができるだろう。数学は100%人間の産物でありいくらでも様々な分野を生み出すことができる(と僕は思っている)から、いくらでも異なる物理が生まれ得る。それらは、シュレディンガーとハイゼンベルグの例のように実はまったく同じものだったという場合もあるし、前回述べた流体力学のようにそれぞれ異なる現象を説明する場合もあるだろう。そして、やはり前回述べたことだが、それぞれの物理の分野に対して相性の良い数学、悪い数学があるはずである。
量子力学と関数解析の関係を強調して述べたのは、とてもこれらの相性が良いとは思えないからである。力学と微分積分学にも関係もうまくいってない部分があるが、たいていは式が複雑すぎて計算不可能とか、そんな類である。しかし関数解析を用いた量子力学は、もっと根本的なところでうまくいっていない。具体的にどううまくいっていないのかを説明しようとすると専門用語を羅列するしか仕方ないのでまあそういうもんだと思って欲しい(例えば、トーラスのように曲がったトポロジーの上では自己共役作用素がうまく機能しない)。数学的にうまくいっていない他にも、観測問題のように物理現象の理解すら危ういところがある。これはもう物理として欠陥品ではなかろうか?(専門家の人、ごめんなさい)
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5月9日 自然と自然科学と数学2 |
科学のライトはいくつかの小さなライトから成っている。それは物理や化学や生物などである。それらが照らす部分は互いに重なるところもあるが、合わせて科学という名のライトを構成している。また物理により照らされる部分を見ると、力学だったり電磁気学だったり、いくつかのライトから成っているようだ。
要するに、物理学はいくつかに分野が分かれている。物理の究極的な目的は全ての自然現象をできるだけ少ない方程式や公理系で記述することであり、実際量子力学はそれを目指しているけれど、一昔前まではどういう自然現象を記述したいかによって分野がはっきりと分かれていたし、今でも具体的な計算を行うときは量子力学はほとんど無力で各分野に頼らざるを得ない。そういうわけで、物理学のライトはいくつかの分野のライトから構成されるのである。
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ここからが本題であるが、物理の各分野のライトをさらによく見てみると、やはりいくつかのライトが交わってできているものがある。これはこれまでとはちょっと事情が違う。物理学と生物学とではもともと目的が違う。したがってこれらのライトはほとんど交わっておらず、合わせて科学全体を構成するのである。一方、例えば物理というライトの中の流体力学という部分を見てみると、やはりいくつかのライトから成っているのだが、これらの目的は同じ、流体の運動を記述することである。目的が同じなのに物理的仮定、数学的構造が異なる、いくつかのライトから成るのである。 大雑把に言うと流体力学の中にもいくつかの流派があり、それぞれ別の手法で、同じものを目指して研究しているのである。それらを継ぎ接ぎして全体が理解できればよいのだが、それぞれが難しすぎて2つ以上を同時に研究している人はあまりいないようだ。 このように流体力学全体をただ1つの理論で覆うことができないのは、今の理論で使っている数学が流体力学と相性がよくないからではないかと僕は思う。 |
流体力学、もっと一般に力学は、微分積分学という数学の土台の上に成り立っている。力学と微分積分学が相性がよくないと言ったが、決して悪くはない。むしろ随分よいとは思う。実際、かなり多くの現象をうまく説明できている。しかしうまくいかない部分がある以上は、相性が100%というわけではないだろう。物理がうまくいかない理由を、僕は物理学ではなく数学に求めるのである。それは、関数解析を土台とする量子力学を見るとよりはっきりしてくる。
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5月8日 自然と自然科学と数学1 |
天気がよかったので久しぶりに陽に当たりながら本を読もうと思い、家の前の公園に行きいつものベンチに座った。目の前には、なんという名前か知らないがなんの変哲もない木が生えている。いつも座っている場所に、突然異質な風景が入りこんだような感覚に襲われてちょっとびっくりした。
3月の初め頃、同じ場所に座ってその木を絵の具とパステルで描いたことがある。そのときは葉が全て落ちていて枝だけの寂しい木だった(だからこそ題材に選んだのだが)。ところが今日久しぶりにその木を見ると、まるで表情が違っていたのだ。表面がつるつるした新しい枝が互いに折り重なり、その先端には初夏に相応しいエメラルドグリーンの葉が生い茂っている。幹には以前にも増してコケがびっしりと生えていた。次に描くときは緑をたくさん使いそうだ。地面の色も前よりずっと明るく見える。物理的に光が当たる量が違うのだから当然であるが、生まれてから心の中で密かに育ってきた四季に対する理想、イメージ、先入観である“季節の色”がそう見えさせるのかもしれない。
前から言っていることではあるが、やはり自然を理解する手段は科学のみではないなあと思った。絵を描くこと通して、その木のほんのわずかな変化が容易に分かる。僕がたいして生物に興味を持っていないせいもあろうが、もはやこの木についてそれ以上知りたいことはなかった。
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自然とは、つかみどころのない霧のようであり、視界に入りきれないほど大きな岩石のようでもある。見ようとするとその足元を残して後は隠れてしまう。つかもうとすると小さなかけらを残して後は消えてしまう。科学という名のライトは以前よりも自然のずっと多くの部分を照らし出すことができるけれども、それでも自然のほんの一部のことしか分からない。また自然の他の部分は、絵画だったり音楽だったり宗教だったりで少しずつ理解できる。それでもやはり全体を照らし出すことはできないだろう。 自然科学が何を持って自然を理解したと言うかというと、数式による表現や実験結果の蓄積によりその現象の起こる原因となるものを突きとめ、未来に何が起こり得るか予測する、ということである。科学の範疇はこんなものであるけど、一般にこれで自然を理解したと言えるのだろうか?少なくとも公園の木を見たときの僕は、机上で気温がこれくらいになると葉がつき始めるとか日光の量がこれくらいだから照度がこうだとか分かることよりも、ずっとその木のことを理解したように思う。 |
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5月6日 群論 |
ようやく群論のテキストができました。1週間くらいでちょちょいと作るつもりが1ヶ月もかかってしまいました。しかし苦労した甲斐あって良いものができたと思います。少し加筆して体裁を整えれば出版できそうです。
群論は証明法がいろいろあって面白いです。いくつかは自分で編み出したものを載せました。結果的にエレガントさに欠けるものもありますが、おそらく最初に定理を発見した人はこのような道筋を辿ったのではないか?と思うような、悪く言えば原始的な証明法です。現代的には同型や単因子論といった概念を使ってあっさり証明できるものもありますし、そのような証明をしている教科書がほとんどです。しかしアイデアの源泉を垣間見れるような証明というのはすごく大事です。(これについては2/19に書いた)
剰余分解を輪っかとして捉えたのは他に類を見ない新しい説明(とはいってもちゃんと理解している人の頭の中には似たようなモノがあると思うけど)で、代数のテキストとしてはめずらしく図がたくさんあり、かなり分かりやすいと思います。
これで群論を理解できなかったら群論を学ぶことをあきらめてください。
なんてことが本当に書いてある相対論の教科書があるんですよ。必要な予備知識なしにちょっと手にとってみた人もいるだろうし、それはちょっと言い過ぎだろうと思うけど。
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5月5日 |
連休の最終日は少し気を抜こうと思い、8時間ほど勉強したあと(笑)、学習机を買おうと思って街へ出かけました。
研究室にこもってて思ったこと、やはり学習机で勉強すると集中力が続きます。連休の初日には22時間という記録を出してしまいました。いま家には四角いちゃぶ台しかなく、本の位置が低いから腰が痛くなるし、すぐに横になってねてしまうのです。
やっぱ学習机だと研究してるって感じが漂っていていいじゃないですか。机の隅には愛する彼女の写真、足を組み、片手にハーブティー、片手でスラスラっと計算して「ふっ、解けた・・・」とエレガントに呟く。か、かっこいい・・・。 よし、まずは彼女を作るところから始めよう。
それにしてもなかなか気に入った机が見つかりません。理想が高すぎるのでしょうか・・・

どこにも売ってなかったなあ。岩波数学辞典。
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5月4日 |
アーベル群が解けた。わーい。
この4日間で64時間勉強してた。なんて愉快なゴールデンウィークだ。
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4月27日 無 |
この一週間だれからもメールが来なかった。べ、別に寂しくなんかねーよ!
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4月26日 有限生成アーベル群の基本定理 |
の新しい証明法を2つも発見した。やばい。やばすぎるほど俺って天才だ。きっと将来はフィールズ賞とかノーベル賞とかとりまくって抱かれたい芸能人No1とか愛用している化粧品No1とかに君臨するに違いない。
なんてことを想像してアヘアへ言ってたら、どっちの証明にも重大な欠陥が見つかった。一方は修正不可能、一方は修正すると教科書とおんなじものになってしまった。
論理的に正しい操作のみを行っていけば途中で間違うはずもない、とは言っても必ずどこかで勘違いをしてしまう。今回のは紙1枚で終わるような証明だったからどうってことないけど、もっと長い証明になると間違いがあったとき大変だなあ。フェルマーの最終定理を証明したワイルズの論文は300ページ、しかも1回目は間違いがあった。もはや間違いを発見すること自体すごいが、数ヶ月後にはちゃんと修正して完全に証明を終わらせたのはさすが。
このHPに載っけるための群論のテキストを作っているのだけれど、もう少し時間がかかりそう。ここまできたらオリジナルの証明作らないと気が済まない。
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4月19日 |
いつのまにか預金の残高が1万円になってた。しかもこないだカードで教科書15000円分買ったから借金確定だ。もう納豆ご飯食べるのはやめて納豆だけにしよう・・・
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4月16日 研究室配属 |
とうとう配属されちゃいました。ところで夢の中で夢を見るのは僕だけでしょうか。
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4月14日 たまご記念日 |
4月14日。俺はこの日を1年間待っていた・・・。人類史に残る記念日すべき日。なにを隠そう、今日は

うちの冷蔵庫の中に放置されていた卵の賞味期限が過ぎて1年目である。鳥インフルエンザの影響が危惧されている今、世界で一番安全な卵であるに違いない。俺のだらしなさに乾杯。
苦節1年、いや実際には2年近くになる。1度、半年くらいまで育成したことがあったが、前の彼女が「まだいける」とか言いながらそれで料理を作ってしまった。しかも自分は食べず。どうやら恨みがたまっていたらしい。
そういうわけで、今日は学校内で友人の協力を得て開通式を行った。つか俺はびびっていたので友人に開けさせた。

殻の表面は少しベタついていて、よく見ると斑点のような模様がついている。振った感触はコロコロという感じで、中に固めのものが入っているようだ。
石に軽くぶつけてヒビを入れていく。ヒビは広がりにくく、容易に殻を1周するようなヒビを作ることができた。思い切って(友人が)強めに叩き、いよいよオープン!

写真でみた感じでは普通っぽいが、黄身は温泉卵のように半分かたまった状態だ。白身はスライムのようになっていてよく伸びる。友人がしきりに「あの液みたいだ。あの液みたいだ」と連呼していたが、ここはアダルトサイトではないので詳しくは触れないでおこう。

黄身を潰すと粘菌のようになった。金星人とかが口から出しそうだ。

最終的にこんなんなりました。昔オムレツ食った直後に吐いたゲロによく似ています。
注意深い実験の結果、卵は1年経つとオシッコが混じったあの液になることが分かりました。残骸はカラスが処理してくれることでしょう。この後、食堂に行って温泉卵食べました。
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4月11日 宇宙エネルギー効果 |
以前は昼ごろに起きてたのだが、山に行った前後から目覚ましなしで7時ごろに起きるようになった。外で陽に当たる機会が多かったから体内時計が正常化したかな?
授業が始まるまでけっこう時間があるので勉強したり昼用の弁当を作ったり洗濯したりと主婦並の生活スタイルである。洗濯はコインランドリーを利用している。独り暮らしを始めたときに実家から古い洗濯機を持ってきていたのだが、ベランダにおいていたら雨風にさらされてあっさり壊れてしまった。
今朝、まさか早朝に洗濯している人がいるとは思わず、寝起きの汚らしい格好でコインランドリーに行くと、けっこうかわいい女の子が洗濯していた。まぶしい朝日。洗剤の香り。狭い室内。
ち、ちっきしょう!毎日洗濯しにきてやらあ!(おしゃれして!!!)
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4月9日 数学科観察日記 |
今日は数学科4回生配当の偏微分方程式と C*-algebra (作用素環)の授業に出てきました。
普段は教壇の正面の席に座るのですが、↓の日記にも書いたように僕は若干数学科にびびっていたので、真ん中より少し後ろの席に座りました。そしたら、後から教室に入ってきた奴らがみんな俺より後ろに座りやがんの。び、びびってんじゃねえよおめえら!
さて授業の中身はというと、もともと解析は得意分野とはいえ思っていたよりずっと簡単でちょっと拍子抜けしました。まだ1回目なのでこれから難しくなるのかもしれませんが。なんにせよ、俺をベジータだとすると数学科のきゃつらはサイバイマン程度ってこった。
今日学んだこと。
・老けたやつが多い。
・独りごと言うやつが多い。
・メガネが多い。
・チェックのシャツ + ジーパン が多い。
・先生のしょうもない数学ネタで爆笑するやつが多い。
・女の子はいない。
工学部と大差ねえな(笑)

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4月7日 新学期 |
いよいよ明日から授業が始まります。春休みも2か月を超えるとさすがにダレてきますね。
とうとう4回生になりました。もう一般教養と工学部のめぼしい科目は取り尽くしたので、今年は理学部数学科と物理学科の科目を取りにいこうと思います。
物理学科はともかく、数学科の授業には今から少し緊張しています。というのも、昔数学科の某教授に
教授「工学部の数学なんて数学じゃねーよ!(ププ」
俺「おまえの顔なんて人間の顔じゃねーYO!(ププ」
と言われたことがありました。あ、2行目のは脳内発声です。
別の数学科の教授には、「理学部は真理を追求するが工学部は・・・」みたいに小バカにされたことがあります。
そんなわけで、僕は数学好きの数学科嫌いです。授業で工学部だとばれたらどんな酷な仕打ちを受けることでしょうか。雑巾の搾り汁とか飲まされるんでしょうか。教授の夜のお相手とかやらされるんでしょうか。極力目立たぬよう、隅っこでほそぼそと授業受けようと思います。とはいっても数学科の腐ったイモ野郎共の中に僕のようなイケメンが混じったら嫌が応にも目立ってしまいそうです。そうだ。イスに横に座って授業受けよう。僕は細いので、教壇からは見えなくなるはずです。

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4月5日 わんわん王国いきてー |
毎日ご飯作るのでだれか結婚してください。
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4月3日 桜と数学と山田 |
今日は男友達4人と花見に行ってきました。僕の4人しかいない友達のうちの4人と行ってきました。
集合場所に向かう途中、一緒に行くメンバーの山田君を見かけたので声をかけました。人違いでした。つか茶髪でメガネの人はみんな山田君に見えます。心の中では山田君のことを山田教授と呼んでいます。(2002/4/9参照)
僕はいつも待ち合わせ場所に15分くらい早く着きます。このときも一番乗りでした。ぼーっとしながら待っていると、向こうから山田君がやってきました。と思ったら、さっき間違えた人でした。
ちょろちょろしてんじゃねえよこのニセ山田が!!!
花見は鴨川のほとりでやりました。6時間くらい下ネタしゃべってました。山田君が意外に女の子にもてるらしいことが許せませんでした。
5人中、僕を含む3人は夕方から塾でバイトがあったので酒は控えめのつもりでしたが、みんな軽く酔っ払ったようです。僕は酒の分を差し引いてもまだ超頭脳は健在ですが、山田君は猿に毛が生えた程度なのでちょっと心配です。
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4月1日 桜と数学と神様 |
今日も家庭教師の帰りに仁和寺、妙心寺、北野天満宮などをぶらぶらとしてきました。(3/6参照)
平日なのでゴミのような人間どもも少なかったし、よく晴れて暖かく、1月前に雪が降っていたとは思えません。この対比が美しいから季節の変わり目って好きです。
仁和寺では桜、しだれ桜、山つつじなどが咲き乱れ、とてもきれいでした。あ、花の名前はそのへんのおばちゃんの会話を盗み聞きました。もともとそんな教養など持ち合わせていません。北野天満宮は家のすぐ近所ですが初めて行きました。中に入ってから知ったけど、学業成就の神様だったんですね。今さら僕には必要ありませんでした。
そう言えばお寺にはよく行くけど、鈴(?)を鳴らして拝むことはないです。その宗教に属しているわけじゃないし、そこに神様がいるとは限らないし、人に頼むほど困っていることはないし、むしろ僕の頭脳が神級だし。ただし、何かぴんときたときには対話を試みてじっと立ちつくします(2/25参照)。拝みもしないし御賽銭もあげないで去っていくので随分変な人に見えます。でも一番変なのは片手に数学書持っていることです。