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二ツ岳の山論(寛文の秼場論争)

この事件は、寛文7年(1667)4月、桃井領十三カ村の者が数名来て、馬草を刈っていると、伊香保の者が出てきて、鍬や荷物を取り押さえ「これが欲しいのならめいめいの村名主を伊香保へ出向かせよ、そしたら返してやる」と言うのであった。そこで名主たちが出向いたところ「先年、公儀から関所の堀切りがなされた時、御法度に叛いて、人馬が勝手に通行してはならぬことになっている。二度と堀切りは通行しませんと一札入れれば押さえた物は返してやる」と言うのである。これを聞いた名主たちは、「堀切りがつくられた際、地頭所に対し、秼場へ行く道がふさがれては困ります」と申し上げたら、「高崎城主、井伊掃部頭様が御相談なされ、私たちが差し上げた絵図もお受け取りになり、木こり、草刈り、耕作人は通行差し支えないという地頭所役人連印の御証文までいただいたのであるから、今まで入会秼場へ入ったのだ」と答えたが、伊香保側は、いろいろ理屈をならべ、和解ができなかったので、やむなく奉行所へ訴え出た。その結果、安中領の者たちまで呼び出され一札書かされた。「広馬場からあまりに無鉄砲な事を申し上げて、きつくお叱りを受けたり、渋川村のように先刻申しましたように先行き高崎領の者たちが、勝訴になった時は、私どもも入会の仲間に入れてください」と、一札を出したりの騒動のうちに、翌年7月に幕府の裁定が下され、桃井領側の占有権と伊香保村のほかの入会採草権が確認され、その後の紛争の規範となった。