鏡の柄に「ほり」と名前が彫ってあります。この頃の女性は、毎日自分の姿を映す鏡に名前を彫って神仏に納め、美しくなるように祈願したといいます。福海寺は花柳街柳原で働く女性達から信仰を集めたので、この鏡も美貌を願って納めたものと思われます。

鏡 銘藤原光長 江戸時代 

中央に「大光山福海寺尊氏将軍祈願所」と書かれてます。

寛文12年「兵庫名所図巻」 兵庫県立歴史博物館蔵

 明治37年2月20日、柏道和尚の世代、福海寺では南禅寺管長を迎え、日露戦争開戦にあたっての敵国降伏皇軍戦捷の祈祷大法会が執行されました。この記念として東郷元帥が書かれた「皇国の興廃この一戦にあり」の扁額が、戦災に遭うまで福海寺本堂に掛かっていました。現在は東郷元帥の掛け軸(子爵小笠原長生中将箱書、明治天皇御製和歌海上舩)があります。
 京都西加茂正伝寺の東巌慧安(とうがんえあん)禅師は、蒙古襲来に当たって敵国降伏を祈願された事で有名ですが、福海寺開山の在庵圓有禅師はその東巌慧安禅師の法孫に当たります。福海寺でこの様に日露戦争戦勝祈願の法要を行ったのも、在庵圓有禅師が連なる東巌慧安禅師の法系の故事によるものです。

東郷平八郎元帥筆
  「御製海上舩」掛軸


 在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師は、京都西加茂正伝寺の法位円性(ほういえんしょう)禅師の法嗣であり、執権北条時頼の参禅の師である鎌倉建長寺二世、兀庵普寧(ごったんふねい)禅師の四世の法孫に当たります。はじめ正伝寺に住し、後に福海寺の開山に成られます。大変道徳が高く、参禅する雲水、学者が大勢集ったと言います。そこから福海寺の法堂は「雲會堂(うんかいどう)」と名づけられました。 
 貞和5年11月21日遷化。世寿84才。遺偈は「八十四年 笑倒祖佛 一句臨行 寒嵐払払」とあります。また肖像画である頂相(ちんそう)の賛は、埼玉平林寺開山の石室善玖(せきしつぜんきゅう)禅師が書かれています。

開山 在庵圓有禅師 墓所
1266年〜1349年

 江戸時代、花柳街でもあった柳原の芸者達が信仰を寄せていた福海寺に寄進したもので、柳原町の歴史を知る上で貴重な物です。

柳原女中講寄進石灯籠 
      宝暦九年

 平清盛公遺愛の時雨の松は神戸市兵庫区三川口町にありました。青葉から玉露を垂らし、霊験あらたかであったといいます。同所に在った兵庫最初の庚申堂と共に平清盛公の信仰を受けておりましたが、太平洋戦争の火災で枯れてしまい、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまいました。現在は石碑のみが福海寺にあります。石碑の文字は、福海寺範国寺両住職であった大海元梁和尚が書かれています。

平清盛公遺愛
    時雨の松石碑
福海寺の歴史

昭和初期の         大黒天福海寺近辺

戦災前の福海寺 (右端は大黒天)