▲足利尊氏公筆 寺額 「福海興国禅寺」
太平洋戦争で焼失をしましたが、残っていた
明治時代の写真を元に復元しました。

▲○印が柳原惣門。中央上部が福海寺。
都賀堤に囲まれた福海寺境内は「枡形」を構成して兵庫城「柳原惣門」防備の役割をしました。門より入ろうとする敵方を横側から迎え撃つ事を想定しています。

福海寺 縁起

 当寺は康永3年(1344年)、足利尊氏公により開かれました。

 話は建武3年にさかのぼります。京都合戦に敗れた尊氏公は、丹波路を取り播州三草より兵庫に来られましたが、新田義貞軍の兵士に追われるところとなり、急遽福海寺の前身である針が崎観音堂の壇下に身を潜められました。それにより辛うじて一命を取り留めた尊氏公はその後兵庫を出航され、九州より西国の水軍を率いて、観世音菩薩名号の帆を張った軍船を兵庫の地に再上陸させます。そして見事湊川の合戦に勝利されたのでした。

 室町幕府を開かれた尊氏公は、康永3年(1344年)一命を取り留めることとなった針が崎観音堂への報恩と、彼我戦没者供養、祝国安民祈願の為に、京都正伝寺より在庵圓有(ざいあんえんゆう)禅師を拝請し福海寺を開かれました。
 福海寺は正式には「福海興国禅寺」と言います。「福海興国」の文字は、尊氏公が福海寺の前身である針が崎観音堂で命拾いされ、兵庫より出航された事が国を興す元に成ったとの感謝の念を表されたものです。そのため尊氏公からは寺録と「福海興国禅寺」の寺額を賜り、足利義満公からも「大光山福海寺」の寺額を賜るなど、福海寺は室町将軍家から厚い崇敬を受けました。

 その後福海寺は、嘉吉(かきつ)の乱の火災で新田義貞陣所跡の二本松(現在の兵庫駅)より現在地に移転して来ました。慶長の除地帳にもその名は出ており、元和元年の調査では、除地高四反九畝十七歩、六石四斗四升と記され、本堂はじめ十六人の僧の屋敷が除地となっています。

 元禄九年の兵庫津絵図等を見ると、福海寺は兵庫津の西の入り口「柳原惣門」の要衝にあり、境内が「枡形」を構成する大規模な様子から、兵庫城の防備の役目をしたことがうかがえます。
開基 足利尊氏公
開山 在庵圓有禅師
本尊 釈迦如来
脇侍 文殊普賢両菩薩
鎮守 義高大明神
兵庫七福神 開運大黒尊天
福原西国 十一面観世音菩薩
山門鎮護 毘沙門天(多聞天)
足利尊氏公 福海寺御詠歌

        彼の岸へ渡す誓いの船出には
                 我も乗りえん賽は火の海


  …兵庫から船で落ちのびられる尊氏公が、その心境を詠まれた歌です。
   
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▲宝永7年「兵庫名所記」 
福海寺の縁起が記されています。

▲「足利尊氏兵庫合戦」部分
橋本周延画 江戸時代 
福海寺に入る足利尊氏公の様子