講道館発祥の地 永昌寺


永昌寺は浄土宗で、かなり広いお寺であった。そうして当時の住職を朝舜法と称して、仲々気骨あるおもしろい坊様であった。
永昌寺の門を入ると、正面に破風造りの堂々たる玄関があった。玄関から右折すること五六間、そこにまた小さい冠木門がある。そのつき当たりに格子戸作りの平民的な玄関があった。この一構えは、一見、寺の内部とは連絡なき一廓とも見えた。当時、大学卒業早々の我が嘉納治五郎先生は、差し当たり此の一廓の六間を賃借して寓居とせられた。お寺はどこでも概して閑静で、脱俗的で、然も建物が宏壮であるから、住居としても、道場としても、普通の民家より感じがよかった。嘉納先生がこの寺を選ばれたのはそのためであったろう。
(富田常次郎 「大日本柔道史」)




永昌寺は、地下鉄銀座線上野駅の1つ浅草寄りの駅稲荷町の北側にある。
碑は本堂に向かって左手の塀際に建っている。
昭和43年5月に講道館が建てたもので、表面には「講道館柔道発祥地」と書かれている。


「死ねます」
声と一緒に三四郎は夕日をうけて蓮の葉の水玉がきらきら光っている隆昌寺の蓮池に書院の縁側からざぶんと無造作に飛び込んだ。
蓮の葉がざわめき、水の波紋が向こう岸にぶつかって騒ぐと、池中の生きものが鳴りをひそめて、不意の侵入者を見守っているようにしんと静まった。
泳ぐには浅く、立っているにはあまりにも泥深かった。
三四郎は一本の蓮につかまったが、蓮はたわいなく音を立てて折れた。どれも、頼りにならず、足は吸われるように底知れずにもぐっていく。このままでは泥に埋まる他なかった。
彼は、岸に打ち込んであった一本の短い杭に手をのばしてつかまった。


(略)【さいづち和尚が池畔に来て三四郎に問いかける。】

「三四郎、そのおぬしがつかまっている杭はなんだか判るか。」
答えはなかった。
「慢心小僧にはわかるまい」
「杭だっ」
「そうよ、命の杭よ、おぬしも、それなしには泥に沈んでしまうな。陸へ上がるは、無念。杭なくば死。三四郎、その杭が悟りよ」

 
池は、寺の東門前清洲橋通り付近にあった。町が市街地化するに伴い、明治36年市区改正で2000坪あった寺域が縮小され、周囲の雑木林とともに池も埋め立てられてしまった。寺も関東大震災で焼失し、この時寺が立ち退き先の連絡先を記した木片が保存されている。
 そこには、
   表 浅草区老松町寿松院地蔵堂内永昌寺仮寺務所
   裏 立退先 埼玉県南埼玉増林村林泉寺
と書かれている。
 本堂は昭和40年に至って再建された。