徳 富 蘆 花


1 「自然と人生」 逗子


  国木田独歩の碑が、神奈川県逗子市内を流れる田越川の下流、田越橋と渚橋の間の川沿いに建てられている。そこは「柳屋」という名前の旅館があった場所である。
 独歩の日記「欺かざるの記」に
   柳屋とは幽居のためその一室を借り受けたる農家なり。今年の夏徳富家の借家したるも同家なり
と書かれている。
 独歩は、明治28年(1895)の夏、徳富蘇峰を訪ねてこの地に来た。この時、「幽居するにはいい場所」と感じたので、結婚するや妻信子を伴い、ここで4ヶ月間の短い新婚生活を過ごすことになるのである。
 独歩が去って10か月後の明治30年(1897)1月、今度は蘆花が住むことになる。
 そうした縁で、ここに2つの碑が建てられた。
 向かって右の碑の表には、
   蘆花・独歩ゆかりの地
 裏には
   やなぎ屋
と書かれ、その説明文が刻まれている。
 柳屋は、昭和29年1月に火災を起こして焼失し、以降建てられることもなく、門柱の表札のみが残されてた。
 ここは、平家の末裔六代御前の墓にも近く、落日は自らの境遇とも重なって、感傷的になった。独歩は、この時の心情を「たき火」という小品に残している。
   御最後川の岸辺に葦の枯れて、吹く潮風に騒ぐ
 田越川は、六代にちなんで地元では「御最後川」とも呼ばれていて、両岸には蘆花の名前になった葦が群落していた。現在では、護岸工事がなされて、葦が揺れる風情はなくなり、海にも近いため、レジャーのヨットが整然と繋留されている。
 蘆花の小説「不如帰」の舞台にも近く、「自然と人生」の観察場所でもある。
「自然と人生」は、明治31年(1898)に出版された。その構成は、随筆87篇、小説1篇、論説文1篇からなっている。、湘南随筆とでも呼べる作品群である。 
 漢語と漢文とを抑揚のある文体で綴り、美しいメロディーのような文章に仕上げている。それは声を出して読めば、さらによく判るであろう。
 例えば、「夏」と題する文は、
  今日初めて蜩(ひぐらし)の声を後山(こうざん)に聞きぬ。一声(いっせい)さや かにして銀鈴(ぎんれい)を振れるが如し。
  白日山に入り、涼は夕べと共に生ず。外に出づれば、川に釣る人あり。談笑の声あり。
  花火を揚ぐる子供あり。
という調子である。
 蘆花は独歩の勧めに従い、周囲で観察できる四季の移り変わりや行事を、詩人の感覚で書き留めた。「自然と人生」は、独歩の「武蔵野」(明治34年)や島崎藤村の「千曲川のスケッチ」(大正元年)等の作品にも影響を与えた。 
 柳屋跡に残されているもう一つの碑には
   蘆花の短歌
が刻まれている。
 蘆花の兄、蘇峰が官位を得た時に、
   青い雲 白い雲 同じ雲でも わしゃ白雲よ かって気ままに 空を飛ぶ
と詠んだものであり、蘇峰の出世を素直に喜べない屈折した心理が歌い込まれている。優秀な兄に遠く及ばないという劣等感は、終生蘆花を苦しめることになった。
 碑が建つ背後には、蘆花記念公園が造成されている。その山頂には、逗子市郷土資料館が建てられている。この建物は、貴族院議長を務めたことがある徳川家達(いえさと)の別荘として、大正元年に建てられたものであるが、その後市に寄贈され、蘆花の作品などを展示する資料館になっている。
 建物からの眺望はとても良く、蘆花が愛した逗子の海が一望出来る。
    
2 「みみずのたわごと」 世田谷区粕谷 

 小金井公園で「武蔵野文学」展を見た帰り、芦花公園を訪れたくなり、立ち寄った。
 「武蔵野文学」展では、独歩に続いて蘆花が紹介されており、
   独歩との交際・田園生活
等の資料が展示されていた。
 展示品の中では、「園圃年中行事」という蘆花の掛け軸が目を引いた。蘆花の自筆で、1年間の農事が覚え書きとして書かれたものである。蘆花が実際に使用した農具なども展示されていた。
 蘆花は、ロシアの文豪トルストイの影響を受けて、「美的百姓」「考える農耕生活者」を実践するため、明治40年(1907)40歳の時、東京府北多摩郡千歳村字粕谷に移り住んだ。ここには死去する昭和2年までの、20年間をこの地で過ごすことになる。
 「みみずのたわごと」は、この粕谷村での6年間に及ぶ生活を綴った87章からなる随筆であり、大正2年(1913)に出版されたものである。
 芦花公園内には、蘆花の住まいと墓が残されていて、東京都の史跡に指定されている。墓は、蘆花夫妻のもので、墓石に刻まれた「蘆花夫妻墓」の文字は、兄蘇峰がしたためたものである。毎年9月18日の蘆花忌には、墓前祭や記念講演会が行われている。
 墓に詣でていると、文学の会のメンバー十人くらいが見学に来た。その様子を、辺りに棲んでいる野良猫がじっーと見守っていた。塀際のサザンカの花が早くも満開である。
 蘆花の住まいは、母屋の他
  秋水書院と梅花書置屋
と名付けられた別棟がある。
 春と秋だが、秋は四季の秋ではなく、幸徳秋水の名前にちなむもので、大逆事件として処断された秋水を忍んで付けた名前である。秋水が処刑された日に、この建物の建前が行なわれた。展示館内には、大逆事件時の蘆花の行動や言動が紹介されている。蘆花は、処刑者秋水に対する嘆願書を政府に書面で送りつけ、助命乞いをしたのである。

 この家の当時の状態については、国木田独歩の病気を慰めるために編まれた「二十八人集」に詳細に描かれている。
 蘆花は、絵を描くこともすきであった。コローが好きで、自ら夕日等の自然を描写したりした。蘆花の文は、そのまま絵になっている。
     
3 蘆花と秋水 世田谷区のボロ市

 世田谷上町で行われるボロ市には毎年行っている。毎年、暮れの12月と年始め1月の2回、15日と16日の両日行われている冬の風物詩である。
郷土館内では「ボロ市展」が行われていた。ボロ市の成立と変遷を文書などを使って解説した中で、近代文学に登場したボロ市風景を特集したコーナーがあった。
 登場文学者は、高群逸枝と徳富蘆花、幸徳秋水、北原白秋などである。
 幸徳秋水が首謀者と見なされた大逆事件で、蘆花は秋水の弁護を行っている。秋水の師は、明治期の言論人である中江兆民であり、蘇峰とは接点があった。
 この2人がボロ市を見学して、それぞれにエッセイを残していることに興味をひかれた。 蘆花がトルストイ風な生活にあこがれて、世田谷区粕谷村に転居したのは、明治40年(1907)2月27日、39歳のときである。上町までは、わずか3キロ程度の距離である。
 蘆花のボロ市は「みみずのたわごと」に載せられているので、明治の終わり頃から大正初年頃にかけての風景を綴ったものである。
 
 「世田ヶ谷のボロ市は見ものである。松陰神社の入り口から、世田ヶ谷の上宿下宿を打通して、約一里の間は、両側にずらり店が並んで、農家日用の新しい品々は素より、東京中の煤掃きの塵箱を此処へ打明けたようなあらゆる襤褸やガラクタをずらりと並べて、売るものも売る、買うものも買う、と唯驚かるるばかりである。見世物が出る。手軽な飲食店が出る。(略)新しい筵、筍堀器、天秤棒を買って帰る者、草履の材料やつぎ切れにする襤褸を買う者、古靴を値切る者、古帽子、古洋燈、講談物の古本を冷やかす者、稲荷鮨を頬張る者、玉乗の見世物の前にぼかんと立つ者、人さまざま物さまざまの眼を尽くす。」

 現在とは、市が開かれる場所も、売られている物も大部違っているが、露店と食べ物屋という構成は今も昔と変わらずに楽しい市になっている。

 一方、秋水が「世田谷の襤褸市」と題するエッセイを発表したのは、明治36年(1903)33歳の時であり、蘆花よりも10年ほど早い。
 
 「毎年十二月十五日、十六日の両日、未だ夜深き午前三時頃より六時頃迄、荏原郡は世田谷ヶ区宿に襤褸屑物の市ありて、一年中の賑わいを極む。都人は嫌がる雑踏を、自然の単調に飽ける近郷近在の老若は、市の風に吹かるれば無病息災、百難を遁れるとて、三里五里の道を此処に集まり、穢なき襤褸屑物を買い取るを、無上の楽とはなす也。されば此市の景気は常に、農家の購買力の高低を試験し得べしとぞ。
 先づ宿の街道に筵席敷列ねて、小屋掛けせる店々、両側を合して其の長さ千二三百間に亘るべし。品々は襤褸六分に、荒物三分、おでん、濁酒、鮓、駄菓子の飲食店、その他数種の見世物興業、耳を聾する囃子の響き、田舎者の荒肝を挫ぐ。
 襤褸は足袋、股引、シャツ、手袋、手拭、袷せ、単物、前掛け、襦袢、羽織、袢纏、婦人の湯巻、手巾(ハンケチ)、靴下、糸屑にて、荒物は柄杓、硯箱、火鉢、茶盆、大小の桶や盥(タライ)、下駄、雪駄、笊類、荒縄、小児の便器、古板、机、鍬、鎌、鉈、斧、熊手、鶴嘴(ツルハシ)、鋤、箆、薬罐、鉄瓶、明樽(アキタル)、明瓶(アキビン)、米、麦、粟、蕎麦、豆類など数へも尽くせず。
 可笑しくも亦憐れに感ずるは、此等の品物穀類を除くの他は、一として満足なるものはなく、破れたる足袋の左は十文、右は九文なるがあれば、穴あける靴下の右は黒にて左は白也。」
 
 都会人としての目で、この市が本当にボロを販売していることに驚き、靴も右左別々に販売していて、しかも色が違うという記述は、まだ貧しかった頃の農村風景が沸々と浮かんできて面白い。
 これに似たような話は、昭和期の終わりにもあって、山谷近くの玉姫稲荷脇の公園では雑物市が開かれているが、時に泥棒市と陰口をたたかれた市で、毎朝開かれている。ここで売られるものも、ちぐはぐな靴が公然として売られていると聞いたことがある。まさかそんなことはないだろうと思って見学に行って真実であるのを確認したことがあったが、貧しかった時代には、実際起こりうる話であっとたろうと実感している。

4 兄との和解 伊香保

 蘆花という名前の由来である「蘆の花」というのは、秋の季語にもなっている。アシには、他に葦・芦・葭等の文字もあって、それぞれに意味が違う。
 蘆は、春先に芽が出たときの柔らかい状態を指している。蘆の花とは、「見所とてもなく」と、風情のない見向きもされないものとして「枕草子」に書かれているものである。
 この名前を付けた蘆花の心理状態というのはどういうものだったのか。蘆花の兄は「蘇峰」である。蘇峰とは、郷里阿蘇山のことを指している。雄大な阿蘇の足元にも及ばない、丁度司馬遼太郎が司馬遷に遠く及ばないという意味でつけたとおなじような感覚なのであろうか。
 蘆花は、兄蘇峰に対抗意識を燃やしていた。蘇峰は、当時の代表的なジャーナリストとしての地位を築いていく。
 蘇峰が名声を得るほどに、蘆花の心は屈折していった。
 見所もないと自己評価し、「徳富」という姓も「徳冨」と書いたほどである。蘇峰との違いを強調した。
 そんな蘆花が憧れたのは、ロシアの文豪トルストイであった。蘆花は、トルストイに会いに、ロシアを訪れた。トルストイの影響力は大きく、帰国するなり、トルストイ流の「晴耕雨読」をめざし、世田谷区粕谷に移住している。
 本当は、兄が活躍をする都会から離れたかったのかも知れない。蘆花の頭の中には、常に兄蘇峰の存在があった。
 兄である蘇峰は、こうした屈折したひねくれた弟を表面的には相手にしていない。忙しく、相手をする時間がなかったのである。執筆に、全エネルギーをそそいでいる。
 粕屋に移り住んだ蘆花は、自然に囲まれた生活に「孤独感」「焦燥感」を深めていく。
農耕生活者にはなりきれず、かといって小説家にもなりきれない。「なりきれない」というのが、蘆花の人生であったといえる。
 死を意識して、蘆花は自分の方から変わった。決断をして、療養している伊香保に兄蘇峰を呼んだ。
 昭和2年9月18日の夜半、蘇峰は妻とかつて蘆花に養女にやった鶴子等を連れて伊香保に到着し、蘆花と対面した。蘆花は自分の方から、わびた。
 兄を迎えるのに、照れくさそうにはしゃぎ回っていた。そこには、幼い頃の兄弟がいた。すぐに手を取り合って和解した。と言うより、蘆花の心を塞いでいる壁が崩れたのである。
だが、この12時間後の午後10時50分、蘆花は静かに息を引き取った。


  2007.9.1

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